北海道日本ハムファイターズ
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設立1946年12月18日
業種サービス業
法人番号3430001028820
事業内容プロ野球球団の運営
代表者清算人 山崎信也
資本金1000万円(特別清算実施時点)
決算期12月末日
主要株主日本ハム 100%
関係する人物大社義規
特記事項:(法人名遍歴)
設立当初「セネタース野球協会」
1946年「東急ベースボール倶楽部」
1948年「東急大映野球」
1949年「東急ベースボール倶楽部」
1954年休眠会社扱い。運営母体は事実上「東映興業」へ移譲。
1973年「日拓ホーム野球」
1974年「日本ハム球団」
2004年6月14日付をもって特別清算(法人格消滅)
※新法人「株式会社北海道日本ハムファイターズ」の新設
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北海道日本ハムファイターズ
YouTube
チャンネル

北海道日本ハムファイターズ

活動期間2014年3月1日 -
ジャンル野球
登録者数約29.1万人
総再生回数148,732,479回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2020

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-10-27-00002023年10月27日時点。
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北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、: Hokkaido Nippon-Ham Fighters)は、日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。略称は「日本ハム」「日ハム」「ファイターズ」[2]。親会社は日本ハム

株式会社北海道日本ハムファイターズは、北海道日本ハムファイターズの球団運営会社でもある。

2004年から、北海道を本拠地にしている。これにより同地を拠点とするプロ野球球団が初めて誕生した。

北海道フランチャイズとし、北広島市FビレッジにあるエスコンフィールドHOKKAIDO本拠地としている。フランチャイズを北海道に移転後は旭川スタルヒン球場を始め、函館オーシャンスタジアム帯広の森野球場釧路市民球場など、道内各地で公式戦を開催したほか、北海道移転前の本拠地でもある東京ドーム静岡県草薙総合運動場硬式野球場静岡市)など、地方球場でも主催試合を開催してきたが、2023年以降は主催全試合をエスコンフィールドHOKKAIDOで実施しており、道内も含めて一軍は地方開催は取り止めている(後述)。

二軍イースタン・リーグ所属)は北海道への移転後も千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズタウンを拠点としており、試合の本拠地でもあるファイターズ鎌ケ谷スタジアムや室内練習場、選手寮がある。

戦後のプロ野球再開に合わせ、1946年に東京都を本拠地とするセネタースとして発足した。翌1947年に東急が買収して東急フライヤーズとなり、以後は親会社の変更などにより1973年までフライヤーズの呼称は継続しつつもチーム名が急映→東映→日拓ホームと変遷、1974年からは食品会社の日本ハムを親会社とする日本ハムファイターズとなり、さらに2004年に東京から北海道へ本拠地を移し現球団名となって現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
球団の歴史
球団創立

1945年11月6日、戦時中の1943年に解散した東京セネタース(1935年創立)の中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規にセネタース(Senators、企業名:セネタース野球協会)を設立。再発足した日本野球連盟に加盟。

東急・東映社史では、セネタースを青鞜(せいとう)と表記する場合がある[注釈 1]
セネタース時代
1946年

リーグ戦にゴールドスターと共に新球団として参加した。大下弘飯島滋弥白木義一郎など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため、財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりという状態だった。旧華族西園寺公一オーナーに付け、銀座キャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登がスポンサーになったものの、結局資金不足に陥り、横沢はたった1シーズンで球団経営を諦めざるを得なくなった。

9月27日の対ゴールドスター戦(西宮球場)で宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが、試合は行われ、これがプロ野球初となる放棄試合とみなされ、0-9で敗戦した。


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