北海帝国
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イングランド人は王とその息子たち、その他の貴族の間の陰謀によって分断された。4ヵ月以内にエゼルレッドの息子の1人はクヌートに忠誠を誓い、王国の歴史的中心であるウェセックスを支配した。エゼルレッドはロンドンをめぐる決戦前の1016年4月23日に死亡した。ロンドン市民はエゼルレッドの息子エドマンド2世を王に選んだ一方、ほとんどの貴族はサウサンプトンに集まりクヌートに忠誠を誓った。クヌートはロンドンを封鎖したが、補給のために撤退を余儀なくされ、オットフォードの戦い(Battle of Otford)にてエドマンド2世に敗れた。しかし、デーン人がエセックスに侵攻した後、エドマンドもアッサンダンの戦い(英語版)にて同様に敗れた。彼とクヌートは、エドマンドがウェセックスを保持し、クヌートがテムズ川以北のイングランド全土を支配下に置くことで合意に達した。しかし、1016年11月30日にエドマンドが死亡したことで、クヌートはイングランド王となった[9][注 4]

クヌートは以前、イングランド貴族のエルフギフ・オブ・ノーサンプトンと結婚していたが、1017年の夏にエゼルレッドの未亡人エマ・オブ・ノーマンディーと結婚することで権力を固めた[11]。1018年、彼は(特にロンドン市民からの金銭により)艦隊に給与を渡して解散させ[12]、イングランド王として完全に認められた[13]。しかし、およそ3000人の親衛兵のみは残し、彼らを養うために現地民からデーンゲルド(英語版)を徴収した[14]
デンマーククヌート1世

1018年または1019年、ハーラル2世は子を残さずに死去しデンマークを空位にした。死んだ兄の後継者であったクヌートは1019年にデンマークへ向かい、その王位継承を主張した。彼がデンマークにいた際は、不特定の危険を避けるために国外にいるという手簡をイングランドの臣下へ送り[15]、イングランドへは初期の反乱鎮圧のために戻ったのみであった[16]。デンマークの年代記によると、デーン人は以前ハーラルを追放してクヌートを支持するも、クヌートが頻繁に不在になったためハーラルを連れ戻し、ついには兄の死後にクヌートが恒久的に国王となったという[17]

ノルウェー王オーラヴ2世スウェーデン王アーヌンド・ヤーコブは、アングロ・サクソン人とデーン人の連合王国を脅威とみなしており(クヌートの父スヴェンは両国に対し支配権を行使していた)、クヌートがイングランドにいたことを利用して1025年または1026年にデンマークを攻撃し、クヌートのデンマーク摂政であったウルフ伯爵(英語版)と彼の兄弟もこれに加担した。クヌートはノルウェー艦隊に不意打ちをかけ、ヘルゲアの戦い(英語版)にてスウェーデン艦隊と交戦した[18]。正確な結果は論争中だが、クヌートが勝利したとされる。オーラヴは退却しデンマークへの脅威は消失した[19][20]

1027年、ウルフが以前のクリスマスを台無しにした罪を償うため、そして皇帝としてのコンラート2世戴冠式に出席し彼の支配者としての重要性を示すため、クヌートは神聖ローマ帝国に向かった。彼は北ヨーロッパからローマへ旅する巡礼者に課される通行料の緩和と、彼らのパリウムを受け取るイングランドの大司教のための教皇の料金を確保した。彼はまた、コンラート2世との関係を持ち始めたことで、皇帝の息子ハインリヒ3世とクヌートの娘{グンヒルダの結婚や、それに先立つ皇帝へのシュレースヴィヒ公国およびゲルマン人がデーン人に対する緩衝地帯として占領したヘーゼビューアイダー川の間にあった古代デンマークの商業地の割譲につながった[21][22]
ノルウェー「ノルウェー王国 (872-1397年)(英語版)」も参照

オーラヴ2世がノルウェー全土に勢力を拡大していたころ、Jarl Erikはイングランドのクヌート陣営にいた[23]。オーラヴへのクヌートの敵意は古く、エゼルレッドがオーラヴの提供した艦隊にてイングランドへ戻っていたことに遡る[24]1024年、クヌートは彼の家臣としてオーラヴにノルウェーを支配させることを提案した[25]。しかしヘルゲアの戦いの後、彼は評判の良くない自身の統治を賄賂で台無しにし始めており、1028年には50隻の艦船にてノルウェーを征服した。デンマーク船の大艦隊が彼に加わってオーラヴはオスロ・フィヨルドへ撤退した一方、クヌートは海岸沿いに航海して各地に上陸し、地元の首長から忠誠の宣誓を受けた。最終的にニダロス(英語版)(現在のトロンハイム)のディングにて彼は王として認められ、オーラヴは数ヵ月後にスウェーデンへと逃れた[26][27][28]

オーラヴは1030年にノルウェーへの帰還を図るもトロンハイム地域の人々に反発され、スティクレスタドの戦い(英語版)にてクヌートと手を結んだノルウェー豪族に敗れ討ち死にした[29]
スウェーデン南部「中世スウェーデンの歴史(英語版)」も参照

ヘルゲアの戦いの後、クヌートはイングランドやデンマーク、ノルウェーとともにスウェーデンの一部も支配することを主張した[30]。彼は、産業の中心地シグトゥーナ、あるいは当時デンマークの一部であったルンドのいずれかにおいて、CNVT REX SW(Cnut King of the Swedes スウェーデン王クヌート)の銘が入った硬貨を鋳造させた。場所については西方のイェータランドブレーキンゲ地方ともされている[31]。イングランドのルーン石碑(英語版)の多くはウップランド地方に位置している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}It was probably either overlordship or disputed rule;[訳語疑問点] 硬貨の鋳造を命じるためにクヌートがスウェーデンに居る必要はなく、彼がアイルランド島を支配したことを示す硬貨も鋳造されており[32][33]、この時期のスウェーデンの歴史についてはきわめて不正確である[34]
その他の属領

クヌートあるいは彼の文書の見出しを書いた人物がスウェーデンの一部地域の王であると主張したことに加えて、彼はヴェンド人から貢物を受け取りポーランド人と同盟を結んだ。1022年、クヌートはウェセックス伯ゴドウィンやウルフと共に、ヨムスボルグから支配した沿岸地域における自らの地位を確認するため、艦隊を率いてバルト海を東進した[35]

ローマの戴冠式から帰朝したころ、クヌートは間もなく軍を率いてスコットランド王国に向かい、上級王マルカム2世とその他2人の王を家臣とした[36]。そのうちの1人Echmarcach mac Ragnaillはガロウェイ(英語版)とマン島を含む支配者であり、1036年ダブリン王国の君主となった。彼ら全員そしておそらくはウェールズ人[37]、エゼルレッドがデーン人へ贈賄するために制定したデーンゲルドを模範としてクヌートへ貢納した。こうしてクヌートは、当時のイングランド王らが主権を認めねばならなかったケルト人の諸王国に対する支配を取り戻し、敵対するオーラヴを支持していた者らを処罰した[25]


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