北極海
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アルハンゲリスクは冬季に結氷するものの、18世紀初頭にピョートル大帝大北方戦争においてスウェーデンからバルト海沿岸を奪取しサンクトペテルブルクを建設するまではロシア唯一の海への出口であり、商港として栄えた。ついで大きな町は、コラ半島北部に位置し北極圏に属するムルマンスク(人口約30万人)である。ムルマンスクはノルウェー海流の影響を受けて不凍港であり、軍港として重要である。この2都市を除けば人口10万を超える都市は北極海沿岸には存在しない。コラ半島から白海南部にかけては北極海沿岸でもっとも人口の稠密な地域であり、ムルマンスク周辺にはコラ半島の名の由来ともなった古い交易都市であるコラや、ロシア北方艦隊の母港であるセヴェロモルスクなどの小中都市が点在する。かつてソビエト連邦時代には国策としてシベリアの開発が進められ、その輸送ルートとして北極海航路も砕氷船を用いて積極的に開発が進められたため、シベリアの北極海沿岸にはナリヤン・マルオビ川河口に近いノービイ・ポルト(Nov?y Port)、エニセイ川河口に近いディクソンレナ川の河口に存在する三角州地帯の南南東にあるティクシチュコト地方のペヴェクなどに1万人を超える都市が立地していた。しかし、ソビエト連邦崩壊後は北極海航路やシベリア開発の多くが放棄され、これらの町の人口も急減した。

ヨーロッパ北部の北極海沿岸では、アイスランドのアークレイリ(人口17000人)が最大の町である。ついでスバールバル諸島の主邑であるロングイェールビーンが人口2200人で続く。スバールバルには他に、かつてソ連が労働者を送り込み、なかば自国領として統治していた炭鉱の町バレンツブルクや、スバールバルおよび世界最北の村落の一つであるニーオーレスンなどの集落があり、いずれも北極海に面している。

シベリア側に比べ、北アメリカ大陸側の人口はさらに少ない。最大の町はアラスカ州ウトキアグヴィク(旧名・バロー)だが、人口は4000人程度に過ぎない。これにプルドーベイ油田をもつプルドーベイが2000人程度で続き、このほかは沿岸に人口1000人を超える集落は存在しない。カナダ領の北極諸島にはレゾリュートなどの小集落が点在するのみである。カナダ最北の村は、北極海に面したエルズミーア島のグリスフィヨルド(人口141人)であり、さらにエルズミーア島北端には世界最北の永住居住地であるアラートが存在する。もっとも、アラートの定住人口は5人であり、この5人を除く大半は同地に存在する軍事基地や気象台、研究所の職員である。グリーンランドでもほとんどの人口は南部の大西洋沿岸に居住しているため、北極海沿岸には、北西端にカーナーク(旧名トゥーレ、人口640人)の町があるほかはほとんど居住者がいない。北東端にノードがあるが、ここは人が常駐するものとしては世界最北端の軍事・観測基地であり、集落ではない。
歴史
古代・中世

紀元前からすでに、北極海沿岸にはエスキモーをはじめとする諸民族が進出し、漁労や狩猟を中心とする生活を送っていた。

北極海の水域を始めて探検したのはヴァイキングであり、11世紀ごろにはコラ半島から白海周辺にまで到達していた。一方、12世紀ごろよりノヴゴロド共和国の移住者が白海沿岸に定住し、ポモールと呼ばれる民族集団を形成した。ポモールは北極海沿岸に沿って各地に入植し、北ドヴィナ川の下流域に位置するホルモゴルイの町を本拠地として、コラ半島北岸のコラなどに拠点を作り、交易をおこなっていた。14世紀にはホルモゴルイは交易拠点として栄えた。
北東航路の探索ポモール交易の行われた港氷の中に捕まれたフラム号、1894年3月

大航海時代が始まり、アメリカ大陸が発見されると、航海熱が高まり、北極海を通ったアジアへの最短ルートがあると信じられるようになった。いわゆる北西航路北東航路である。特にイギリスフランスオランダがこの航路探索に力を入れた。そんな中、1553年に北東航路探索中だったリチャード・チャンセラー白海へとたどりつき、ホルモゴルイからモスクワ大公国へと到達した。これによって1555年ロンドンにおいてモスクワ会社が設立され、北極海を通じたイギリス・ロシア交易が盛んとなった。1584年に建設されたノヴォ・ホルモゴルイ(現アルハンゲリスク)がこの交易の拠点となった。1594年には、ウィレム・バレンツノヴァヤゼムリャ島を発見した。1596年にはバレンツの3度目の探検によってスヴァールバル諸島スピッツベルゲン島が発見されている。この島はしばらく放置されていたが、1608年ヘンリー・ハドソンが北極海探検を行った際、この島近くにホッキョククジラの大群が生息していることを報告し、以後バレンツ海ではイギリスとオランダによる捕鯨が盛んに行われるようになり、スピッツベルゲン島は捕鯨拠点として一時繁栄した。イギリスはやがて脱落し、オランダによる独占状態となったが、乱獲により1680年代以降次第に衰退していった[6]。一方でこの時代、北東航路の最東端となっていたヤマル半島マンガゼヤへの就航が禁じられ、これにより北東航路探索も一時下火となった。ポモールはこの後もアルハンゲリスクを中心として、ノルウェーのヴァードーハンメルフェストトロムソの3都市との間でロシアの穀物とノルウェー北部のを交易する、いわゆるポモール交易を行って繁栄し、19世紀には白海沿岸に、ロシア語ノルウェー語ピジン言語であるルッセノルスクが広まったが、この交易並びに言語はソヴィエト連邦の成立により終焉を迎えた。

こののちはロシア人によって探検が進められていった。毛皮を求めて東進するロシア人は17世紀中盤には太平洋へと到達し、1648年にはセミョン・デジニョフベーリング海峡を発見するものの、この発見は1世紀近く忘れ去られる。1725年から1730年までは、ヴィトゥス・ベーリングがカムチャッカやチュコト半島を探検し、ベーリング海峡を再発見した。19世紀中盤には、ヤコフ・サンニコフフェルディナント・フォン・ウランゲルなどの探検によって北極海沿岸の地形が判明し、1875年にはアドルフ・エリク・ノルデンショルドヴェガ号によって北東航路の通航に成功した。1879年にはアメリカのジョージ・ワシントン・デロングがジャネット号で北極海探検に出発したもののノボシビルスク諸島沖で沈没し、デロングはじめほとんどの探検隊員が死亡したが、3年後の1882年に、北極海よりはるか南、大西洋に面するグリーンランド最南端のユリアーネハーブにジャネット号の残骸が漂着した。これは北極海中央部を東から西へと流れる海流の存在を示唆しており、この海流を念頭に、1893年から1896年まで、北極点到達を目指したフリチョフ・ナンセンによってフラム号遠征が行われた。この探検においては北極点到達はならなかったものの当時の最北到達記録を更新するとともに、この航海によって開発された探検技術はこれよりのちの探検に多大な影響を与えた。
北西航路の探索

一方、アメリカ大陸側においても北西航路の探索がすすめられていた。1576年から1578年にかけてはマーティン・フロビッシャーが3度の北西航路探索を行い、バフィン島にまで到達している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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