北条高時
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東勝寺跡の奧にある北条高時腹切りやぐら
徳崇大権現

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、神として宝戒寺に祀られている。鎌倉幕府が滅亡した5月22日に、高時の慰霊のために徳崇大権現会・大般若経転読会が行われる。境内の徳崇大権現堂に祀られている北条高時像が、輿に乗り本堂に迎えられ(「徳崇大権現会」)、「大般若経転読会」が行われる。大般若経の正式名称は大般若波羅蜜多経といい三蔵法師がインドから持ち帰った600巻に及ぶものである。転読が終わると、高時の御神像は権現堂に戻る[9]
人物北条高時、烏天狗に騙されるの図(月岡芳年『芳年武者无類』より)

古典『太平記』や『増鏡』『保暦間記』『鎌倉九代記』など後世に成立した記録では、趣味に耽り、幕政を混乱させた暗君として書かれる傾向にあり、江戸時代から明治にかけての史学でも、その傾向があった。大正時代の日本史の教科書でも、『太平記』の記述を参考としており、高時を闘犬田楽に耽溺して政務を顧みない暗愚な当主として記載している[10]

『太平記』には、高時が妖霊星を見て喜び踊り、一方で藤原仲範が妖霊星は亡国の予兆であるため、鎌倉幕府が滅亡することを予測したエピソードが挿入されている[10]。更に、一族の礎石を築いた初代執権北条時政が、江島に参籠したところ、江島の弁財天が時政に対して時政から7代の間北条家が安泰である加護を施した話を記載し、得宗で7代目に当たる高時の父貞時の代にその加護が切れたと記載する。『太平記』は、高時は暗愚であった上、江島弁財天の加護まで切れてしまったのだから、鎌倉幕府の滅亡は至極当然のことであった、と断じている[11]

『保暦間記』は、高時の人物像について「頗る亡気の体にて、将軍家の執権も叶い難かりけり」「正体無き」と記している。一族である金沢貞顕が残した『金沢文庫古文書』にも彼が病弱だったことが強調されており、彼の病状に一喜一憂する周囲の様子をうかがわせる。また貞顕の書状には「田楽の外、他事無く候」とも書かれており、田楽を愛好していたことは確かである。彼の虚弱体質の原因として、祖父・時宗さらには高祖父・時氏まで遡る安達氏を正室とした血族結婚にあると思われる。実際、彼の正室も安達氏である。また、『二条河原の落書』には「犬・田楽ハ関東ノホロ(滅)フル物ト云ナカラ」と書かれており、鎌倉幕府滅亡から間もない時から高時が闘犬や田楽を愛好したことが、幕府を滅ぼした要因の一つだとされてきたことが窺える[12]。また田楽については1330年(元徳2年)に東大寺手掻会にて参加する田楽役者の選任にたいして幕府が介入しており南都の反感を買ったことも田楽で高時が悪く評される要因の1つとなっている。

父の貞時の場合、その父である時宗が没した時には14歳であり、政務に勤しむ父親の姿を知っており、23歳の時に平禅門の乱で実権を掌握してからは、政務に勤しんで得宗専制を確立したが、高時の場合は彼が3歳の時に起きた嘉元の乱以来貞時が政務に対する意欲を失って酒浸りの生活になっていたうえ、高時が9歳の時には父は世を去っていたため、高時は政務を行う父の姿を知らなかった[13]。また、晩年の貞時が酒浸りになって政務を放棄したため、高時が家督を継いだ頃には幕府は長崎円喜らの御内人・外戚の安達時顕・北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって「形の如く子細なく」(先例に従い形式通りに)運営されるようになっており、最高権力者であったはずの得宗も将軍同様装飾的な地位となっていたため、高時は主導的立場を取ることを求められていなかった[14]。その一方で、高時は夢窓疎石らの禅僧とも親交を持って、仏画などにも親しみ、禅の師である南山士雲頂相を自ら描いた作例も知られている[15]

また、『増鏡』も、高時が病弱であり、鎌倉の支配者として振る舞っていたものの、虚ろでいることが多かった、体調が優れている時は、田楽や闘犬に興じることもあったと記している[16]。また、田楽や闘犬を愛好したのは、執権を退いた1326年以降であったと記している[17]。『太平記』の記述は、『増鏡』などと比べると、悪意のある誇張が目立つと指摘される[17]。こうした『太平記』における高時像は、討幕を果たした後醍醐天皇並びにその一派が、鎌倉幕府の失政を弾劾し、喧伝する中で作り上げたものという側面もあるとされる[18]

1884年(明治17年)11月東京猿若座で初演された黙阿弥作の活歴物新歌舞伎北条九代名家功』(ほうじょうくだいめいかのいさおし)、通称『高時』で、九代目市川團十郎は高時の高慢かつ孤独で愚鈍な深層心理を内側から極めて写実的に表現して大当たりとなったが、これが今日ある高時の人物像を決定的なものにした。同作は今日でも上演されることが多い人気作となっている。また近年では、NHK大河ドラマ太平記』(高時役は片岡鶴太郎)や湯口聖子作の漫画『風の墓標』(秋田書店)の影響からか、病弱、かつ虚無感を漂わせた人物像が定着するようになった[19]
経歴

※ 日付=旧暦

1304年嘉元元年)12月2日、誕生。(数え年1歳)

1309年延慶2年)1月21日、元服。(6歳)

1311年応長元年)1月17日、幕府小侍所奉行に就任。6月23日、従五位下に叙し、左馬権頭任官。(9歳)

1316年正和5年)1月5日、従五位上に昇叙。左馬権頭如元。1月13日、但馬権守を兼任。7月10日、執権と就る。(14歳)

1317年文保元年)3月10日、相模に遷任し、左馬権頭・但馬権守兼任。3月27日、但馬権守辞任。4月19日、正五位下に昇叙。相模守・左馬権頭如元。同4月、従四位下に昇叙。(15歳)

1319年(文保3年)1月、修理権大夫に転任。左馬権頭兼任。2月、左馬権頭辞任。(17歳)

1326年正中3年)3月13日、出家。崇鑑を号す。(24歳)

1333年元弘3年/正慶2年)5月22日、自刃。(享年30、満29歳没)

1366年貞治5年)5月20日、贈正四位下師守記。同日条)

※参考資料:北条時政以来後見次第(東京大学史料編纂所所蔵)、鎌倉年代記(増補続史料大成)、関東開闢皇代并年代記事(東京大学所蔵)
偏諱を受けた人物

高時の代には「高」の字を一般の御家人に下賜する図式が成立していたことが論文によって指摘されており(前述参照)、これに該当する人物は以下の者とみられる。
北条氏一門

大仏高宣(第11代執権・北条宗宣の孫)[2][6][20]

大仏高直(高宣の弟)[20]

規矩高政

名越高家[21]

ほか
その他



足利高義[22][23]

足利高氏[20][23][注 4](高義の弟、※のち足利尊氏(後醍醐天皇(尊治)の偏諱を受け改名))


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