北条義時
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^ 『吾妻鏡』によると時政も安房に逃れ、そこで頼朝と合流し、9月8日頼朝が時政を甲斐国に使者として送ったとある。義時も時政と行動を共にしていた。また上総広常を味方につけた頼朝は、9月20日に土屋宗遠を第2の使者として甲斐に送り、24日に宗遠の来訪を受けた甲斐源氏は一族を集めて、頼朝と駿河国で参会すべきか評議を重ねている。『平家物語』延慶本では、「時政は敗戦後に頼朝とはぐれてそのまま甲斐に逃れた」「頼朝は時政の生死を知らずに、宗遠を甲斐に使者として送った」としている。時政・義時は単純に甲斐に亡命していただけという解釈も成り立ち、甲斐源氏懐柔のため奔走したという逸話は『吾妻鏡』編者による北条氏顕彰のための曲筆の可能性もある。[要出典]
^ 『吾妻鏡』養和元年4月7日条 他の10名は、下河辺行平結城朝光和田義茂梶原景季宇佐美実政榛谷重朝葛西清重三浦義連千葉胤正八田知重。主に有力御家人の2世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。文治5年(1189年)2月28日、頼朝が彗星を見るために寝所から庭に出た際は、御前を三浦義連・結城朝光、御後を梶原景季・八田知重が警護している。
^ 他の6名は小山朝政和田義盛梶原景時土肥実平比企能員畠山重忠
^ 坂井孝一は、時政・政子が比企氏に対抗するために義時をメンバーに押し込んだのではないかとしている[25]。一方で細川重男は、時政は頼家の外戚として、義時は頼朝の家子を代表した立場で参加した可能性を指摘して、両者の立場は一応切り離す立場を取る[26]
^武家年代記』には「元久三六任相模守」とあり元久3年(1206年)6月とも読めるが、『鎌倉年代記』『系図纂要』『北条九代記』『将軍執権次第』はいずれも元久元年(1204年)3月6日であり、「元年」の語句が欠落していると思われる。
^ 古活字本『承久記』や『梅松論』では時政の送った手勢としている。
^ 正確な時期は不明だが、源具親と再婚した姫の前が産んだ輔通は元久元年(1204年)生まれのため、それ以前であることは確実である。なお正治2年(1200年)5月25日には義時のである伊佐朝政の娘が有時を産んでおり、その際に加持のために鶴岡若宮別当尊暁が前夜から義時の大蔵亭に詰め、出産の際には頼家から馬が、政子から産衣が下されているため、姫の前が大蔵亭に同居していたらこの扱いは難しかったのではないかとして、それ以前に義時と姫の前が離縁していた可能性を指摘する見解もある[27]
^ 細川重男は時政の名越邸を姫の前所生の義時次男・朝時が継いでいる事実に着目し、政範の死から牧氏事件までの9か月の間に時政・牧の方が朝時を政範に代わる北条宗家の後継者に迎え入れようとしたとしている。細川は朝時は自身を祖父時政の後継者と自負して、父義時や兄泰時の北条宗家継承の正統性を否定していたことが、父や兄との確執やその後の名越流と得宗家(江間流)との対立の一因であったとする可能性を指摘する[18]。ただし、朝時の名越邸継承の時期は不明であり、時政の真意は定かでない。一方、岡田清一は宗時が戦死した時点では政範・朝時ともに生まれていなかったことから、時政は宗時・義時の弟の時房を後継者に考えていたのではないかと推測している[30]。また呉座勇一は当時の慣例から義時が江間を称したとしても、それが北条宗家から自立して嫡流を継承する資格を喪ったことを意味しないとして、宗時の死後は義時が後継者となったとしている。呉座は亀の前騒動後に時政が一時的に失脚して義時が北条氏の当主になったものの、その後時政が復帰したために義時が北条氏の後継者であることを前提に便宜的に分家・江間家を創設したが、復帰した時政が後継者の変更を図ったために後継者問題が生じたとしている(呉座勇一 2021, p. 204・233-234)。
^ 時政が実朝後見役時代の2年間に発給した文書は、26通現存している。(呉座勇一 2021, p. 241)
^ 義時黒幕説は古くは新井白石が『読史余論』で唱えており、龍粛[41]安田元久[42]などが支持している。
^ 鎌倉御家人共謀説は、五味文彦が提唱したもので、実朝は北条氏の傀儡ではなく将軍親裁が機能しており、後鳥羽上皇との連携を目指した実朝に対し、義時と義村は手を結んで実朝および後鳥羽と実朝を結びつける後鳥羽の近臣源仲章の排除に乗り出したと主張しており[43]本郷和人が支持している[44]
^ 義村黒幕説は、永井路子が小説『炎環』で描いて以来注目され、石井進がその可能性を認めた[45]ことで浮上した。他に大山喬平[46]上横手雅敬[47]美川圭[48]などが支持している。
^ 後鳥羽黒幕説は、谷昇が提唱し、実朝暗殺と前後する1月22日から28日にかけて上皇が国家安泰とともに政敵の調伏を祈願する五壇法が実施され、実朝暗殺の報が届いた直後の2月6日に五壇法が再度行われた他、同日に他に4つ、10日も2つの修法が行われていることを指摘して、後鳥羽上皇が京都で育った公暁を利用した実朝暗殺に加担し、自らは京都にて暗殺事件を機に幕府が崩壊することもしくは宮将軍の擁立による幕府掌握を祈願していたと主張している[49]
^ 公暁単独犯行説を取っているのは、山本幸司[50]永井晋[51]坂井孝一[52]高橋秀樹[53]、矢代仁[54]呉座勇一[55]山本みなみ[56]など。
^ 『愚管抄』には頼茂と藤原忠綱の間に怪しい共謀があったとし、忠綱は実朝暗殺後に九条基家を次期将軍にしようと画策したため、頼茂誅殺の翌8月に上皇に解官・所領没収されており、その赦免を願っていたのが卿二位だったと記している。そこから卿二位の推す頼仁親王の将軍就任が上皇によって拒絶され、卿二位の政敵西園寺公経の外孫三寅が有力な将軍候補となったため、卿二位が何らかの妨害を企み発覚したのが頼茂謀反の真相で、上皇は在京武士の訴えで頼茂捕縛を試みたが召喚に応じず討伐に至ったとして、承久の乱に至る公武対立の図式ではなく後鳥羽院政下における権力闘争の一コマとして位置付ける説もある[62][56]
^ 慈光寺本『承久記』による。古活字本『承久記』では流鏑馬揃え。
^ 北条時尚と推測する見方もある[74]
^ 当初の計画では大倉御所の敷地を西方に拡張する予定であったが、その場合には通りの反対側にある三浦義村・北条泰時(義時居住)両邸にも影響を与える計画であったが同時に義村としては三寅との関係性を誇示することにもなり、義時には不都合な側面もあった。また、政子の義時邸からの退去は引き続き義時邸を仮御所とする三寅のための空間拡張の敷地を確保すると共に、政子が三寅を擁することで得ていた義時に対する優位を解消することになった。
^吾妻鏡』で貞応元年(1222年)12月12日条に誕生したと記されている男子と同一人物と推測する見方もある[85]
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