北条義時
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文治5年(1189年)に時政の後妻である牧の方を母として生まれた異母弟の政範は16歳で従五位下に叙され、26歳年長の義時と並ぶ地位にあり、時政は政範を将来の嫡子に考えていた可能性もある[18]

養和元年(1181年)4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた[注釈 5]。この寝所伺候衆は後に家子と呼ばれ、門葉源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置づけられたものである。後年に結城朝光は「義時はその中でも家子専一(側近筆頭)とされた」という書状を記している(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)[10]

寿永元年(1182年)11月、頼朝は愛妾・亀の前伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、このことを継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、牧の方の兄・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は義兄の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛された。義時は以降頼朝側近として重用されるようになったが、時政は長らく失脚状態となる[19]

寿永2年(1183年)、義時が21歳の時、長男の泰時が誕生する。

元暦2年(1185年)、源範頼率いる平氏追討軍に属して西国へ赴き、葦屋浦の戦いで武功を立てた。文治5年(1189年)7月、奥州合戦に従軍。建久元年(1190年)の頼朝上洛の際は、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれ、参院の供奉をした[注釈 6]。この頃から『吾妻鏡』で義時はしばしば複数の御家人の筆頭として書かれており、呉座勇一は「吾妻鏡は義時を顕彰する意図で編纂されたものではあるが、義時が重臣として扱われているという一定の事実を示しているのではないか」としている[20]

建久3年(1192年)9月25日、比企朝宗の娘の姫の前を正室に迎える。姫の前は美人として有名な幕府出仕の女官で、義時は1年以上も手紙を送っていたが、なびかなかった。見かねた頼朝が「決して離縁しない」という誓約書を書かせた上で義時と結婚するよう姫の前に命じ、2人は結ばれたという[21]。翌年(1193年)には姫の前との間に嫡男の朝時を儲けた。また父の時政は、頼朝次男の千幡(後の源実朝)の乳父となり復権。曽我事件以降はいよいよ有力な重臣として扱われるようになった[22]。ただし頼朝の生前には時政・義時は無位無官であり、御家人の中での序列は必ずしも最上位ではなかった[23]
権力闘争

建久10年(1199年)の頼朝の死後、跡を継いだ二代鎌倉殿・源頼家の下で政務を談合する13人の御家人、いわゆる十三人の合議制の一員となった。最年少の義時のみが30代、無冠かつ幕府においても無役であり、同じく一員であった父の時政と共同歩調を取ることとなる[24][注釈 7]

建仁3年(1203年)、7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は頼家の乳母父で舅である比企能員を自邸に呼び出して謀殺。頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼし、次いで頼家の将軍位を廃し、伊豆国修禅寺へと追放した(比企能員の変)。そして頼家の弟で、娘の阿波局(義時の同母姉妹)が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任し、実権を握った。『愚管抄』によると、11月になって襲撃から逃げ延びた一幡が捕らえられ、義時の手勢に殺されたという。

元久元年(1204年)3月6日、義時は相模守に任じられた[注釈 8]。7月18日、頼家が伊豆国修禅寺で死去。『愚管抄』や『武家年代記』『増鏡』によれば、頼家は義時の送った手勢により暗殺されたという[注釈 9]。またこの頃に比企一族の正室・姫の前と離別している[注釈 10]。その後は伊賀の方を継室に迎え、元久2年(1205年)に五男の政村を儲けている。

この時期まで時政・義時は一体となった政治行動を行っていたが、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱で父子は対立するようになる。6月、時政は娘婿の平賀朝雅稲毛重成の訴えを受けて、同じく娘婿でもある武蔵国の有力御家人である畠山重忠を謀反の罪で滅ぼした。『吾妻鏡』によれば義時はこの際、重忠討伐に反対し、義母である牧の方の使者に強談されて、渋々討伐に同意したとされる。また重忠の滅亡後には長年の親交を思って涙したという。そして義時は、重忠に従っていた家臣が少なかったことから、謀反は偽りであると時政を難詰した。その後、讒訴を行ったとして稲毛重成が大河戸行元に、その弟の榛谷重朝三浦義村にそれぞれ殺害されている。これについては時政を非難した政子・義時姉弟によるものとする説[28]と、窮地に陥った時政によるトカゲの尻尾切りとする説[29]とがある。

ただしこの経緯は父を追放した義時の背徳を正当化する『吾妻鏡』の脚色であるとの説もある。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}一方で近年の研究では「北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要がある」という論も出されている[要出典]。なお義時が重忠の遺族を救済した形跡はなく、承元4年(1210年)以降、武蔵国は北条氏の重要な基盤となる[29]

7月、時政と牧の方は実朝を廃して女婿の朝雅を将軍に擁立しようと画策。義時は姉・政子と協力し、有力御家人・三浦義村(母方の従兄弟)の協力を得て、時政と牧の方を出家の上で伊豆国に追放。さらに在京御家人に命じて平賀朝雅を京で誅殺した(牧氏事件)。また8月には下野国の宇都宮頼綱(時政の娘婿)に謀反の疑いがあると告発し、守護の小山朝政に追討を命じたが、頼綱は無実であるとして出家遁世した。一連の事件の背景には、元久元年(1204年)に畠山重忠の乱の引き金となった北条宗家の後継者・政範の急死があり、後継を巡って時政・牧の方と、先妻の子である義時や政子らの確執があったと考えられる[注釈 11]

時政追放後、義時は御家人中の最有力者となり[31]、儀式における序列は義時が第1位を占めるようになる[要出典]。『吾妻鏡』によれば、元久2年(1205年)に義時は時政の跡を継ぎ、政所別当並びに執権の地位に就いている。一方、岡田清一は承元3年(1209年)12月以前の政所文書に義時の署判が1通も見られないことを指摘し、元久2年の執権就任記事は『吾妻鏡』編者の脚色と指摘し、実際の就任は実朝が政所を設置する承元3年(1209年)としている[32]。また長又高夫は、「執権」は評定衆と共に北条泰時によって後年創設された職で、『吾妻鏡』の記述はそれを過去にまで遡らせたものに過ぎず、執権就任そのものが事実ではないとする説を提示している[33]

義時は政所別当・大江広元、頼朝の流人時代からの側近である安達盛長の嫡男・安達景盛らと連携し、幕政の最高責任者として実権を握ったが、その権力を自ら示すことには慎重であった。時政は政所下知状に唯一人で署名するなど、性急な権力独占を行って多くの反発を招いていたが、義時はそのような活動を抑制している。実朝の政所設置までの4年間に義時が発給した文書は、わずか5通しか現存していない[注釈 12]。また幕府においては御家人達の要望に応えた「頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず」との大原則を明示した。

承元3年(1209年)、実朝が従三位に進み、政所を設置して親裁を本格的に開始した。11月、義時は自らの被官を御家人扱いするよう要望したが、実朝の反対により断念した。同月には幕府は、諸国守護人の職務怠慢を突いて終身在職を改め、定期交替制への変更を図ったが、千葉氏三浦氏小山氏など豪族御家人達の激しい反発を招いて断念された。かつてはこの取組が義時主導にあるものと考えられていたが、実朝の政治的自立によって義時と共に主導したのではないかとする説もある[34][35]


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