北条義時
[Wikipedia|▼Menu]
源頼朝の生前には無位無官だった義時は官位を有する御家人[注釈 3]より序列が下であり、通称である「北条小四郎」の名が官位を有する御家人の「三河守」「左兵衛尉」などより上にあるのは不自然なため、『吾妻鏡』は「江間殿」の呼称を工夫したのではないかとの推測である[11]

(平氏)から名字(北条)への転換期のため、本来は姓(本姓)の場合にのみ付ける「の」を入れて北条義時(ほうじょう-の-よしとき)と名乗っていたとの姓氏研究家の主張もある[12]。もっとも、中世の実名呼称回避の習俗の中で、実際にそのように呼称される場面は限定されたと考えられる[13]諱#日本における諱の歴史参照)。

北条氏の嫡流家督者は得宗と呼ばれ、その家系は得宗家と呼ばれる。得宗は義時の法名「徳崇」にちなむとも言われるが、記録にある義時の法名は「観海」である。細川重男は「徳崇」を北条時頼期以降に贈られた禅宗風の廟号ではないかとしている[14]。訴訟法の中から生まれた行政用語であるという説もある[15]
生涯
青年期

長寛元年(1163年)、北条時政の次男として生まれる。母は前田家本『平氏系図』によれば伊東入道(伊東祐親)の娘。宗時が同母兄、政子が同母姉にあたる[6]。義時が15、6歳の頃に政子は、伊豆の流人であった源頼朝の妻となった。

義時が数え18歳となる治承4年(1180年)8月17日、父・時政、兄・宗時と共に頼朝の挙兵に従うが、23日の石橋山の戦い大庭景親に敗北し、宗時が戦死する。頼朝は土肥実平らと共に箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日には真鶴岬神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。時政・義時親子は文献により途中経過が違うものの、甲斐国へ向かい甲斐源氏と行動を共にすることになる[注釈 4]。10月13日、甲斐源氏は時政・義時と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、富士川の戦いに勝利する。その後、時政・義時親子は頼朝の下に戻る。12月12日、頼朝は新造の大倉亭に移徙の儀を行い、義時も時政や他の御家人と共に列した。

兄・宗時が戦死したため義時は嫡子になったとされるが、義時は『吾妻鏡』で北条ではなく所領とした江間の名字で記されることが多く、分家の江間家の初代であったとも見られる[16][17]文治5年(1189年)に時政の後妻である牧の方を母として生まれた異母弟の政範は16歳で従五位下に叙され、26歳年長の義時と並ぶ地位にあり、時政は政範を将来の嫡子に考えていた可能性もある[18]

養和元年(1181年)4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた[注釈 5]。この寝所伺候衆は後に家子と呼ばれ、門葉源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置づけられたものである。後年に結城朝光は「義時はその中でも家子専一(側近筆頭)とされた」という書状を記している(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)[10]

寿永元年(1182年)11月、頼朝は愛妾・亀の前伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、このことを継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、牧の方の兄・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は義兄の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛された。義時は以降頼朝側近として重用されるようになったが、時政は長らく失脚状態となる[19]

寿永2年(1183年)、義時が21歳の時、長男の泰時が誕生する。

元暦2年(1185年)、源範頼率いる平氏追討軍に属して西国へ赴き、葦屋浦の戦いで武功を立てた。文治5年(1189年)7月、奥州合戦に従軍。建久元年(1190年)の頼朝上洛の際は、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれ、参院の供奉をした[注釈 6]。この頃から『吾妻鏡』で義時はしばしば複数の御家人の筆頭として書かれており、呉座勇一は「吾妻鏡は義時を顕彰する意図で編纂されたものではあるが、義時が重臣として扱われているという一定の事実を示しているのではないか」としている[20]

建久3年(1192年)9月25日、比企朝宗の娘の姫の前を正室に迎える。姫の前は美人として有名な幕府出仕の女官で、義時は1年以上も手紙を送っていたが、なびかなかった。見かねた頼朝が「決して離縁しない」という誓約書を書かせた上で義時と結婚するよう姫の前に命じ、2人は結ばれたという[21]。翌年(1193年)には姫の前との間に嫡男の朝時を儲けた。また父の時政は、頼朝次男の千幡(後の源実朝)の乳父となり復権。曽我事件以降はいよいよ有力な重臣として扱われるようになった[22]。ただし頼朝の生前には時政・義時は無位無官であり、御家人の中での序列は必ずしも最上位ではなかった[23]
権力闘争

建久10年(1199年)の頼朝の死後、跡を継いだ二代鎌倉殿・源頼家の下で政務を談合する13人の御家人、いわゆる十三人の合議制の一員となった。最年少の義時のみが30代、無冠かつ幕府においても無役であり、同じく一員であった父の時政と共同歩調を取ることとなる[24][注釈 7]

建仁3年(1203年)、7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は頼家の乳母父で舅である比企能員を自邸に呼び出して謀殺。頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼし、次いで頼家の将軍位を廃し、伊豆国修禅寺へと追放した(比企能員の変)。そして頼家の弟で、娘の阿波局(義時の同母姉妹)が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任し、実権を握った。『愚管抄』によると、11月になって襲撃から逃げ延びた一幡が捕らえられ、義時の手勢に殺されたという。

元久元年(1204年)3月6日、義時は相模守に任じられた[注釈 8]。7月18日、頼家が伊豆国修禅寺で死去。『愚管抄』や『武家年代記』『増鏡』によれば、頼家は義時の送った手勢により暗殺されたという[注釈 9]。またこの頃に比企一族の正室・姫の前と離別している[注釈 10]。その後は伊賀の方を継室に迎え、元久2年(1205年)に五男の政村を儲けている。

この時期まで時政・義時は一体となった政治行動を行っていたが、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱で父子は対立するようになる。6月、時政は娘婿の平賀朝雅稲毛重成の訴えを受けて、同じく娘婿でもある武蔵国の有力御家人である畠山重忠を謀反の罪で滅ぼした。『吾妻鏡』によれば義時はこの際、重忠討伐に反対し、義母である牧の方の使者に強談されて、渋々討伐に同意したとされる。また重忠の滅亡後には長年の親交を思って涙したという。そして義時は、重忠に従っていた家臣が少なかったことから、謀反は偽りであると時政を難詰した。その後、讒訴を行ったとして稲毛重成が大河戸行元に、その弟の榛谷重朝三浦義村にそれぞれ殺害されている。これについては時政を非難した政子・義時姉弟によるものとする説[28]と、窮地に陥った時政によるトカゲの尻尾切りとする説[29]とがある。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:124 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef