北条氏康
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^ 一連の河東一乱のきっかけとなった今川氏・武田氏の同盟は元々花倉の乱後の今川領国の安定化のためのものだった(勿論、北条氏を敵とするものではなかった)と考えられる。ところが、それに対する北条側の対応を今川側が読み間違えて同盟破棄から戦いに至ってしまった。その結果、北条・今川間に相互不信が残り、特に北条側から攻撃を受けた今川側の反発が尾を引いたと考えられる[26]
^ 従来の説では天文20年(1551年)一時的ながら、祖父・北条早雲ゆかりの城である駿河興国寺城を奪いながら、その後また義元により撃退されたとも伝えられていたが、近年の研究では早雲が今川氏から初めて与えられた城は「石脇城」であるという見方もされており、また次に与えられた城も興国寺城ではなく、興国寺城の築城自体が、北条氏と係争し始めてからの今川義元によるものという説がある[27][28][29]
^ この時氏規は松平竹千代・後の徳川家康と親交を結んだとされる。
^ 古河公方の歴代には数えられていない。

出典^ a b c 佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。
^ “ ⇒町指定重要文化財:第21号:寒川神社の棟札(小田原北条氏ゆかりの棟札3点)”. 寒川町役場教育政策課(神奈川県高座郡寒川町). 2021年12月5日閲覧。
^ 「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社
^ 黒田 2018, p. 8, 「総論 北条氏康の研究」.
^ a b 下山治久『戦国時代年表 後北条氏編』
^ 黒田 2021, pp. 8?9, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
^ a b c d 黒田 2021, p. 9, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
^ a b c d 黒田 2012a, pp. 99?132, 「第三章 北条氏康」
^ a b 山口 2005, pp. 9?23
^ 黒田 2021, p. 263, 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」.
^ 黒田 2021, p. 10, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
^ 黒田 2021, pp. 264?265, 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」.
^ 佐脇栄智「第3編第4章第2節 北条氏の領国経営(氏康・氏政の時代)」『神奈川県史 通史編T』1981年。 /所収:黒田 2018, pp. 38?39, 「総論 北条氏康の研究」
^ a b 黒田 2021, p. 11, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
^ 黒田 2021, p. 12, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
^ 黒田 2021, pp. 281?286, 海老名真治「氏康と武田信玄-第一次甲相同盟の展開-」.
^ 黒田 2012b, pp. 53?79
^ a b 黒田 2005a, pp. 62?84, 「公事赦免令」
^ a b c d e f g h i j k 山口 2005, pp. 53?84
^ a b 小和田 1996, p. 108.
^ 黒田 2021, p. 13, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
^ 山口 2005, pp. 28?38
^ a b 黒田 2021, p. 14, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
^ 矢崎勝巳「『彦部家譜』所収里見氏関係文書」『中世房総』5号、1991年。 
^ 黒田 2021, pp. 323?324, 細田大樹「北条氏康の房総侵攻とその制約」.
^ 黒田 2021, pp. 271?273, 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」.
^ 北条早雲史跡活用研究会編『奔る雲のごとく(今よみがえる北条早雲)』
^ 大塚勲「今川義元-史料による年譜的考察」
^ 黒田 2005b.
^ a b 黒田 2021, pp. 14?15, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
^ a b 黒田 2021, p. 16, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.

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