元服は氏綱の左京大夫任官と同時期の享禄2年(1529年)年末の15歳の頃と見られている。北条氏を名乗ったのも元服をきっかけにしたと推測される[7]。氏康の元服当時、父氏綱は扇谷上杉朝興と南武蔵をめぐって争いを続けており、武蔵の守りを固めるため武蔵府中に近い要所小沢城に氏康を入れた。享禄3年(1530年)六月、上杉朝興が甲斐の武田信虎と同盟し共同で北条領に攻め込んできた。小沢城を守る氏康の隊1000程に対し朝興の軍は5000を越えており、城を守ることは厳しかった。しかし氏康は圧倒的な数の差に朝興が油断していると判断、上杉軍を奇襲し大勝利を収めた(小沢原の戦い)と記録されており(『異本小田原記』)、当時代史料の面からも事実に近いとされている[8]。幼少期の頃の氏康は内気な性格で家臣からの評判は芳しくなかったが、この戦いにより自身の強さを証明、これ以降氏康は氏綱の嫡男、すなわち北条氏の後継者として数多くの合戦に出陣、大いに武功を上げることになる。 小沢原の戦い以降、上杉朝興による北条包囲網に苦しめられていた氏綱は守勢から攻勢に転じ、安房の里見氏の内紛に介入、当主義豊を討ち里見義堯を当主に擁立した。(犬掛の戦い)これにより敵対する小弓公方の勢力を弱らせた。さらに天文4年(1535年)8月、北条包囲網の一翼を担っていた武田信虎は上杉朝興の要請を受けて駿河に出陣、また弟の勝沼信友を郡内に向かわせた。今川からの援軍要請を受けた氏綱は甲斐に出陣、武田軍に大勝し信虎の弟勝沼信友が北条綱成に討ち取られた。(山中の戦い)この合戦で氏康は別動隊を率いて敵軍を混乱させる武功を上げた。天文5年(1536年)、今川家の当主氏輝が急死して内乱が勃発すると(花倉の乱)氏綱は嫡流の梅岳承芳を支援することを決定、氏康が北条の援軍総大将として駿河に向かい、今川良真と戦い勝利、義元が今川の当主となった。また後述する第一次河東一乱において、氏康は氏綱と共に駿河に出陣、今川軍と戦い勝利して富士川より東、すなわち[河東]を手に入れた。さらに天文6年(1537年)7月、扇谷居城の河越城攻略を提案、自ら部隊を率い河越城に出陣して陥落させる戦功を上げ、綱成を河越城主とさせると自身は江戸城に戻り天文7年(1538年)10月の第一次国府台合戦では父と共に足利義明、里見、真里谷武田連合軍と戦い、自ら隊を率いて公方軍と激突し、敵の総大将・小弓公方の足利義明を討ち取り、小弓公方を滅亡、断絶させる大勝利を収めた[9]。 天文4年(1535年)もしくは翌5年(1536年)に又従兄弟にあたる今川氏親の娘を正妻に迎え[注釈 1][7]、天文6年(1537年)には嫡男の西堂丸が誕生している[11]。しかし、天文6年(1537年)2月に今川氏が北条氏と対立する武田氏と婚姻同盟を結んだことを知った氏綱はその月のうちに今川との同盟を破って駿河に侵攻している(第一次河東一乱)[12]。天文6年(1537年)7月には父と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進し、同8年(1539年)6月には将軍・足利義晴から巣鷂(鷹の雛)を贈られている[9]。 天文7年(1538年)10月の第一次国府台合戦以降、氏綱にかわって氏康が北条軍を指揮することとなった。氏康は千葉昌胤と共に国府台城、亥鼻城、馬加城を次々と落城させると年内には無人となった小弓御所を攻め落とし、下総を制圧した。さらに翌天文八年(1539年)には当時上総を追放されていた真里谷武田氏の真里谷信隆(武田信隆)を支援して上総に南下、小弓公方の滅亡により豪族たちは次々と北条に鞍替えし真里谷信応は里見義堯を頼って安房に落ち延びていき、3月には久留里城に入った。氏康は古河公方に働きかけて信隆を当主とした。さらに東上総の酒井定治
武功を重ねる
家督相続
天文8年(1539年)5月に氏康は孤立していた河越城を救うため江戸城に入り、南武蔵の主力を集めると約14000の兵を率いて中武蔵侵攻を開始した。当時氏康の攻撃により北条領となった河越城と北条の本領は分断されており、領土の接続のための侵攻であった。