北条時頼
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注釈^ 鎌倉期の足利嫡流家の歴代当主のは「得宗家当主の偏諱通字の「氏」」で構成されていた[29]
^鎌倉遺文』を見ると、建長5年(1253年7月30日の「関東下知状案」(『豊後詫磨文書』[31])では「大友式部大夫泰直」となっているものが、同8年(1256年)建長8年8月11日 「関東下知状案」(『筑後大友文書』[32])では「頼泰」と名が変わっており、この間に執権である時頼から一字を与えられて改名を行ったのは確かであり、「大友系図」[33]を見ると、頼泰の付記に「姓改平氏 出羽守 北條時ョ賜一字」とある。これは頼泰が時頼の猶子となって平姓と「頼」の一字を与えられたことによるものとする見解が出されている[34]
^ 六角頼綱は時頼の邸宅で元服したことが『吾妻鏡建長2年(1250年12月3日条に記載されており、時頼が烏帽子親となって「頼」の一字を与えたと考えられている[35]
^ 近年の研究で、曽我兄弟を例に、兄弟を通じた関係が媒体となって烏帽子親の決定がなされるケースがあったことが指摘されており[36]、佐々頼起の場合も時頼の邸宅で元服した兄・頼綱に導かれて同様に「頼」の字を受けたものと考えられる。
^ 「平賀氏系譜」(『平賀家文書』二四八号[41])の惟時の付記に「於西明寺殿亭元服」と、西明寺殿(=最明寺殿、時頼)の邸宅で元服した旨の記載があり(時期については記載はなく不明)、その名乗りから烏帽子親である時頼から「時」の字を受けたと考えられている[42]

出典^ a b c d e f g h i j 北条氏研究会 2001, p. 280
^ a b c d 佐藤 & 樋口 2000, p. 253.
^ 奥富敬之『鎌倉北条氏の興亡』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2003年。 
^ a b c d 高橋 2013, p. 25.
^ a b 高橋 2013, p. 38.
^ 高橋 2013, p. 39.
^ 高橋 2013, pp. 39?40.
^ 高橋 2013, pp. 40?41.
^ 高橋 2013, p. 40.
^ a b 高橋 2013, p. 151.
^ a b 高橋 2013, p. 152.
^ 佐藤 & 樋口 2000, p. 272。なお、同日には元将軍の藤原頼経が亡くなっている。
^ a b c 高橋 2013, p. 153.
^ a b c d吾妻鏡

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