北条時政
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この時、時政の嫡男・宗時が大庭方の伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしている。

頼朝、実平らは箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。一方の時政は、途中経過は文献によって異なるが[注 6]、いずれにせよ頼朝とは一旦離れて甲斐国に赴き、同地で挙兵した武田信義ら甲斐源氏と合流することになった。10月13日、甲斐源氏は時政と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、房総・武蔵を制圧して勢力を盛り返した頼朝軍も黄瀬川に到達した。頼朝と甲斐源氏の大軍を見た平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。その後、佐竹氏征伐を経て鎌倉に戻った頼朝は、12月12日、新造の大倉亭に移徙の儀を行い、時政も他の御家人と共に列している。
亀の前事件

治承4年(1180年)末以降、時政の動向は鎌倉政権下において他の有力御家人の比重が高まったこともあり目立たなくなる。寿永元年(1182年)、頼朝は愛妾・亀の前伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、頼家出産後にこの事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の父または兄である牧宗親に命じて広綱宅を破壊する(後妻打ち(うわなりうち))という事件を起こす。12日、怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。

元暦元年(1184年)も時政は、3月に土佐に書状を出したことが知られる程度でほとんど表に出てこなくなる。この年は甲斐源氏主流の武田信義が失脚しているが、武田信義の後の駿河守護は時政と見られる。駿河には牧氏の所領・大岡牧に加え、娘婿・阿野全成の名字の地である阿野荘もあり、縁戚の所領を足掛かりに空白地帯となった駿河への進出を図っていたと考えられる。
京都守護

文治元年(1185年)3月の平氏滅亡で5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結したが、10月になると源義経行家の頼朝に対する謀叛が露顕する(『玉葉』10月13日条)。10月18日、後白河院は義経の要請により頼朝追討宣旨を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。11月24日、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。時政が使者として選ばれたのは、頼朝の岳父であるからという説が一般的であるが、元木泰雄野口実は時政と経房の関係が重視されたためではないかとしている[6]。経房の五代孫である吉田隆長の日記『吉口記』には、時政と経房が以前から関係があったことが記されている。在庁官人であった際に罪を得て召籠られてしまった時政は、当時伊豆守であった経房の対応に深く感じ入り、頼朝に経房が賢人であると告げた。このため頼朝は経房を信頼するようになったというものである[6]。経房は頼朝が上西門院蔵人を務めていた際の上司であり、頼朝も経房を深く信頼していたと見られる[7]

時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった一方で、『玉葉』文治2年3月24日条には「時政は九条兼実に『籍』を提出するために家司の源季長に預けたが、季長は時政の一連の行為に笑ってしまい、『時政は田舎者なので当然やりかねない』と兼実に述べた」とあるように、田舎者として恥をかくこともあった[8]。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し[注 7]、その月の終わりに一族の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。これは、『吾妻鏡』文治2年2月25日条に見える時政家来による京都での濫妨行為が関係していると見られ、時政が第2の義仲・義経になりうる可能性を含んでいたのである[8]。後任の京都守護には頼朝の義弟一条能保が就任した。時政の在任期間は4か月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。『吾妻鏡』によれば、後白河院は時政の離京を酷く惜しんだとされている[9]

鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる。
富士の巻狩り英雄百首より(『源平盛衰記』巻20に見える、八牧(山木)兼隆を討ったときの歌)「富士の巻狩り」も参照

建久4年(1193年)3月、後白河院の崩御から1年が過ぎて殺生禁断が解けると、頼朝は下野国那須野、次いで上野国吾妻郡三原野で御家人を召集して大規模な巻狩りを催した。奥州合戦以来となる大規模な動員であり、軍事演習に加えて関東周辺地域に対する示威行動の狙いもあったと見られる。5月から巻狩りの場は富士方面に移り、駿河守護である時政が狩場や宿所を設営した。ところが5月28日の夜、雷雨の中で、曾我祐成曾我時致の兄弟が父の仇である工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件が勃発する。混乱の中で多くの武士が殺傷され、兄の祐成は仁田忠常に討たれ、弟の時致は頼朝の宿所に突進しようとして生け捕られた(曾我兄弟の仇討ち)。時致の烏帽子親が時政であることから、時政が事件の黒幕とする説もあるが真相は不明である。

伊豆の有力者だった祐経の横死は時政に有利に働いたようで、建久5年(1194年)11月1日、伊豆国一宮である三島神社の神事経営を初めて沙汰している。なお、この年の8月には長年に亘って遠江国を実効支配していた安田義定が反逆の疑いで処刑されているが、安田義定の後の遠江守護は時政と見られる。伊豆・駿河・遠江3か国に強固な足場を築いた時政は、正治元年(1199年)に頼朝が死去すると十三人の合議制に名を連ね、幕府の有力者として姿を現すことになる。時政は頼朝の生前には無位無官であり、御家人の中での序列は必ずしも最上位ではなかった[10]
梶原景時の変

頼朝の死後は嫡子の頼家が跡を継ぐが、頼朝在世中に抑えられていた有力御家人の不満が噴出し、御家人統制に辣腕を振るっていた侍所別当・梶原景時が弾劾を受けて失脚、12月に鎌倉から追放された(梶原景時の変)。

玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士達から恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったという。時政は弾劾の連判状に署名をしていないが、景時糾弾のきっかけとなったのは時政の娘・阿波局であり、景時一族が討滅された駿河国清見関は時政の勢力圏であることから景時失脚に関与していた可能性が高い。
比企能員の変

正治2年(1200年)4月1日、時政は遠江守に任じられ、源氏一門以外で御家人として初めて守としての国司となった。時政の幕府内における地位は大いに向上したが、将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅である比企能員に移り、時政と比企氏の対立が激しくなった。建仁3年(1203年)7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼす。次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放した(比企能員の変)。
実朝擁立

時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、自邸の名越亭に迎えて実権を握った。9月16日には幼い実朝に代わって時政が単独で署名する「関東下知状」という文書が発給され(『鎌倉遺文』1379)、御家人たちの所領安堵以下の政務を行った。10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任した。この時期の時政は鎌倉殿である実朝はもちろん、同じ政所別当である大江広元の権限を抑えて幕府における専制を確立していた。建仁3年(1203年)に時政が初代執権に就いたとされるのは、こうした政治的状況を示すものと考えられている[11]。また、頼朝在世中の時政は上記のとおり地味な存在であり、有力幕臣として頭角を現したのは十三人合議制あたりからである。


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