北条時宗
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特に石塁や警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大した。六波羅探題に対しても、御家人の処罰権を与えるなど機能を強化させた。また、北条一族を九州などの守護に相次いで任命し現地にも下向させ、時宗も小山氏播磨守護を免じて、自身が就任した。また寄合衆には平頼綱ら御内人の参加を広げ、将軍権力であった御恩沙汰などを行うなど得宗専制が強化された。その方針は、時宗の没後に具体化された弘安徳政にも反映されることになる。

その頃の朝廷では後嵯峨法皇の遺言により、後深草上皇亀山天皇のどちらが治天の君になるかについて時宗が執権を務める幕府が裁定を任され、幕府は後嵯峨の中宮で後深草と亀山の生母の大宮院(西園寺?子)に後嵯峨の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山の親政が決定した。亀山は皇子の後宇多天皇に譲位して院政を開始するが、治天の地位を逃した後深草は不満を募らせ、後宇多が即位すると抗議のため上皇の待遇を辞退して出家しようとしたため、時宗は後深草の皇子である熙仁親王(後の伏見天皇)の立太子を実現させた(両統迭立)。
弘安の役から晩年

弘安4年(1281年)の弘安の役では、作戦指示が時宗の名義で出され、御内人が戦場へ派遣されて部隊の指揮にあたった。元軍は、2ヶ月近くの戦闘で日本軍の抵抗に苦戦した末に台風を受けて混乱し、さらに日本軍の総攻撃により壊滅した。こうして時宗は二度の元軍の襲来を撃退したが、戦後に今度は御家人などに対する恩賞問題などが発生し、財政難のなかで3度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化しなければならないなど、難題がいくつも積み重なっていた。

弘安7年(1284年)には、すでに病床にあったとされる。自身の死期を悟ったのか4月4日には出家し、同日に34歳(満32歳)で逝去。自らが開いた鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られた。死因は結核とも心臓病とも云われる。
人物

時宗は禅宗に帰依するなど信心深く、特に禅宗は父の時頼と交友のあった蘭渓道隆南宋から来日した兀庵普寧大休正念などから教えを受けていた。蘭渓道隆が死去すると名師を招くために中国に使者を派遣し、無学祖元を招聘する。祖元が開山した鎌倉の円覚寺(鎌倉市山之内)の開基となり、円覚寺を関東祈祷所とし、尾張国富田庄を寄進する。また、忍性の慈善活動を支援し、土佐国大忍荘を寄進したとも言われる。

熊本県南小国町満願寺に時宗を描いたとされる頂相が所蔵されているが、これは時宗の従兄弟(血統的には甥)の北条定宗であるという説が現在では有力である[要出典]。

『一遍上人絵伝』には一遍と出会った時宗の姿が描かれている。
評価江戸時代前賢故実』より。画:菊池容斎

時宗は、父の時頼ほど伝説逸話が豊富ではなく、本格的に論評が風発するのは近世に入ってからであった。その事績を礼賛するか、非難するかの差異は評する者の史実の解釈に依拠するところが大きく、特に現代的感覚においては、やや苛烈な印象を受けることとなる。

肯定的評価の多くは、権勢を振るった夷狄蒙古を撃退したという事績に集約され、蒙古からの通達に侵略の意図があり、使者を斬殺したことを是認する前提に立脚する。『増鏡』で名君であると称賛されている他、国学者の観点から、承久の乱で三上皇を島流しにした北条氏を逆賊として排撃した本居宣長も、時宗については肯定的に評している。水戸藩発行の『大日本史賛藪』では、全面的に時宗は礼賛されている他、頼山陽も時宗を礼賛している。

時宗が帰依した無学祖元は、時宗は40年未満の生涯ながらその功績は70歳を越えて生きた人にも勝る、感情的になることなく、驕ることもない立派な人物だ、と、時宗の三回忌の際に賛辞の言葉を連ねた[7]

中世から近世においては、否定的な評価はあまり下されることがなかったが、橘守部は、蒙古襲来は朝廷潰しを意図する北条氏と蒙古が結託して行った自作自演であると仮定して時宗を弾劾している。しかし、守部のこの評価は荒唐無稽に過ぎるとしてあまり顧みられることはない。守部がかような荒唐無稽な珍説を提唱した背景には、守部の本居宣長に対する反感が沈潜していたと指摘される[8]

幕末、諸外国との折衝で紛糾し、尊王攘夷の気風が高まるようになると、俄然、時宗に対する礼賛は傾向を強めるようになる。明治時代には元寇受難者への追贈で時宗にも従一位が追贈され、湯地丈雄によって元寇記念碑が設立された。太平洋戦争の頃になり、皇国史観が鼓吹されるようになると、時宗に関する論考は一層盛んになり、評伝などが数多く書かれた。太平洋戦争で日本本土が攻撃されると、強大な外敵からの侵略に断固として立ち向かった時宗の姿勢を肯定的にとらえ、礼賛する風潮が生まれた[9]

戦後においては防塁の築造をはじめとする蒙古への対策は、「日本帝国主義の原点である」という評価さえ生じるようになった[10]上横手雅敬は「結果的に日本防衛には成功したが、多大な犠牲を払って徹底抗戦したその姿勢が、本当に適切だったかどうか疑わしい」と評し[11]、無学祖元による賛辞も、「この手の禅僧の言葉は空疎」として、額面通りに信用することはできないと述べる[7]。蒙古の使者を斬首に処したことについては、「国際慣行を無視した蛮行」と評した上で、使者を斬首しなければ弘安の役は避けられたかもしれないと時宗を非難している[12]が、実際には斬首の報せが届く前からクビライは日本征服の野望を表明し、軍船の建造を開始しており[13]、また報せが届くと、元では朝議の結果、この件に関しては迂闊に元側から反応を示さないことに決している[14]

時宗の外交姿勢の原因は、蘭渓道隆大休正念そして無学祖元ら、時宗や父・時頼が帰依した禅僧達が強く影響していると指摘される[15][16]。彼らは皆、南宋から渡来した人物であり、蒙古が高麗で行った統治を考慮すれば、時宗の徹底抗戦の判断はむしろ妥当なものであったとの反論もある[17]。また、川添昭二は鎌倉幕府が武断的性格を持つ武士によって作られた政権であったことから、徹底抗戦の構えは必然でもあったとしている[18]

細川重男は、二月騒動における、肉親や一族に対する粛清や、誤殺とみるや自分が差し向けた追手達さえ処刑する、さらには蒙古に対する強硬姿勢など、苛烈な処置から、目的の為には逡巡せず武力を行使し、意向に反するものは容赦せず処断する人物と評している[19]。そして、細川は時宗の政治の本質は「武力偏重」であり「暴力主義」であると評している[20]。そして、時宗がこうした強硬、暴力的な政策を取った背景には、「武家政権」というものが、暴力による支配、力による強制を根源、基盤としているためであると指摘する[21]

事績を概観すれば非情であり、専制的な政治家、権力者としての側面を指摘される一方[22]、禅に篤く帰依し、家族に対しては温情を以って接した。

内政では、細分化する御家人の所領問題と蒙古襲来の事後処理に追われた。蒙古襲来以降は、内政・外交の両面で京都の朝廷に対する主導権を握ることとなった。これを契機として、鎌倉幕府は軍政組織としての「幕府」から全国的な国家組織としての色合いが濃くなっていったとする説がある[23]
時宗の執権就任時期に関する異説

通説では、第6代執権である北条長時が文永元年(1264年)8月に出家した後、長老の北条政村が第7代執権に、時宗が連署に就任し、4年後の文永5年3月に政村から執権を譲られたことになっている。これに対して、石井清文は以下の理由から、長時死去の際に時宗が直ちに執権に就任したとする説を出している[24]

石井の主張は、

「連署」の職名の由来は下知状や御教書に執権と並んで連署したところに由来する[25]、実際に長時存命中は武蔵守長時(執権)・相模守政村(連署)の順で署判されている。

長時没後の最初の下知状とされているものに、文永元年10月10日付「宮城右衛門尉広成後家尼代子息景広与那須肥前二郎左衛門尉資長相論条々」(『鎌倉遺文』9166号)の暑判は「左馬権頭平朝臣」「相模守平朝臣」と記されている。『鎌倉遺文』では左馬権頭=政村、相模守=時宗と注釈するが、政村は左馬権頭を務めたことはなく(右頭権頭の在任はある)、左馬権頭を務めた経験があるのは時宗であり、政村が左京権大夫に転じて、その後任の相模守に時宗が就任するのは翌文永2年3月なので、それ以前に出された同文書の注釈に誤りがあり、左馬権頭=時宗、相模守=政村としなければならない。


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