1893年(明治26年)2月、山路愛山の「頼襄を論ず」(『国民之友』1893年1月)に反論して、創刊して間もない『文学界』[注釈 3]に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表。徳富蘇峰なども交えて論争となる。夏には伝道師として基督教会の磐中教会から福井捨助の開拓した花巻教会を支援する[8]。8月、普連土女学校の教え子であった富井まつ子が18歳で病没、翌月「哀詞序」を書く[1]。日清戦争前夜の国粋主義に流れる時勢も反映したのか、次第に精神に変調をきたし、エマーソンについての評論『エマルソン』[注釈 4]を脱稿後、12月28日に自殺未遂を起こし入院。
1894年(明治27年)1月に退院し芝公園の自宅に戻るもののその後は執筆せず、5月16日の早朝、自宅の庭で縊死した。25歳没。葬儀は翌日、キリスト教式で行われた[1]。
1894年(明治27年)10月8日に星野天知・島崎藤村編による遺稿集『透谷集』が刊行、10月『早稲田文学』に金子筑水の「『透谷集』を読みて」を掲載。1902年(明治35年)10月1日、星野天知編による『透谷全集』(文武堂)が刊行される。 1892年(明治25年)2月、評論「厭世詩家と女性
思想
1893年(明治26年)、山路愛山との論争の中で、自身の自由民権運動への挫折感と自己批判をし、肉体的生命よりも内面的生命(想世界)における自由と幸福を重んじる『内部生命論』を発表した。
また、それまで自分には「信仰」と「愛」が欠けていたとして、キリスト教信仰は個人を支え、他愛は他者との間に相互に自立した人格的な結合を実現し、精神を純化すると考えた。
透谷の作品群は、近代的な恋愛観からも窺えるように、ジョージ・ゴードン・バイロンやラルフ・ワルド・エマーソンの影響下にロマン主義的な「人間性の自由」という地平を開き、以降の文学に対し、人間の心理、内面性を開拓する方向を示唆している。島崎藤村は『桜の実の熟する時』『春』において透谷の姿を描いている。
作品
人生に相渉るとは何の謂ぞ
内部生命論
厭世詩家と女性
万物の声と詩人
蓬莱曲
処女の純潔を論ず
北村透谷を題材とした作品
北村透谷 わが冬の歌 - 1977年の映画(監督:山口清一郎)。透谷役はみなみらんぼう。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 近くに数寄屋橋があり、筆名の透谷は「すきや」をもじったもの。
^ 東京専門学校には、1886年(明治19年)頃まで籍を置いていたとされるが、卒業はしていない。
^ 当時は尾崎紅葉ら硯友社の最盛期であった。
^ 1894年4月24日刊行。民友社の『拾弐文豪』の1冊。
出典^ a b c d e f g h i j k l m n 紅野敏郎・佐々木啓之編「北村透谷年譜」『現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、1969年初版、1988年15刷、pp.419-422
^ 勝本清一郎「北村透谷」『北村透谷選集』岩波文庫、1970年、pp.383-394
^ 平岡敏夫 「透谷の家系・家族・環境」『続北村透谷研究』 有精堂出版、1982年5月、ISBN 978-4-640-30222-9。