北村徳太郎
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また同年にキリスト教に入信する。

1915年 北浜銀行破綻後、鈴木商店系の播磨造船所(現・IHI)に入社、のち支配人に昇進する。支配人時代、快適な社宅の建設や、従業員の子女のために幼稚園を設置したり、音楽会を催すなど、福利厚生の向上に努めた。

1919年 同じ鈴木商店系の神戸製鋼所の主事となる。

1921年 同社佐世保出張所長。

1923年 佐世保商業銀行常務取締役に転進。

1931年 佐世保商業銀行頭取。

1937年 佐世保商業会議所会頭。

1939年 親和銀行設立に参画。副頭取に就任。

1943年 親和銀行頭取。

1946年 第22回衆議院議員総選挙に進歩党公認で立候補し初当選。

1947年 片山内閣運輸大臣。

1948年 芦田内閣大蔵大臣。就任に際し親和銀行頭取を辞し会長に退く。

1949年 民主党が「連立派」と「野党派」に分裂。

1950年 民主党野党派と国民協同党の合併により国民民主党結成。政調会長に就任。

1955年 国会議員団の団長としてソ連を訪問。

1952年立憲民政党系の大麻唯男堤康次郎松村謙三らの新政クラブと合同し、改進党結成。

1960年 総選挙に落選。

1962年シュバイツァー日本友の会」会長。

1963年 第二次訪ソ日本経済使節団団長としてソ連を訪問。

1964年 訪中、周恩来と会談。

1965年 高千穂商科大学(現高千穂大学)理事に就任。

1966年 第1回日ソ経済合同委員会議長を務める。また佐世保市名誉市民章を受章(生前受章の邦人名誉市民としては同時受章の山口喜久一郎と並び初めて)。

1968年11月15日 死去。82歳。

同姓同名候補による選挙

1958年衆院議員選挙長崎2区には、北村徳太郎(自民前、元大蔵相、71、佐世保市在住)と同姓同名の北村徳太郎(無所属新、会社役員、45、松浦市在住)が立候補。日本初の同姓同名候補による選挙戦となった。長崎県選挙管理委員会は、按分票による開票の混乱を避けるため、有権者に対し、両者の区別がつくような文言(「前大臣の」「佐世保の」「無所属の」「40代の」など)を投票用紙に記入するよう呼びかけた。当初、開票作業の混乱が予想されたが、得票数は前職・北村が5万6千票強の貫禄勝ち。新人の北村は4百票に満たない泡沫候補であった。
エピソード

大蔵大臣時代の新人官僚に本名の平岡公威として大蔵省に在籍していた
三島由紀夫がいる。前任者の栗栖赳夫の時に三島は大蔵省に入省した。

中曾根康弘は、「日本が第二次世界大戦後の混乱と困窮の最悪状態にあった時、神は二粒の麦の種を国会に与えた」と言った。その一人は、敗戦直後に成立した片山内閣の片山哲首相であり、もう一人は保守党の北村徳太郎で、この二人のクリスチャン政治家が「政治は道義なり」と、動乱期の国内情勢の中で粉骨砕身したことを評価した[1]

脚注[脚注の使い方]^ a b 高見澤 1976, pp. 154
^ a b 高見澤 1976, pp. 155
^ 高見澤 1976, pp. 156
^ 高見澤 1976, pp. 157
^ 高見澤 1976, pp. 158
^ 高見澤 1976, pp. 159
^ 高見澤 1976, pp. 163
^ 高見澤 1976, pp. 166
^ 高見澤 1976, pp. 167
^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第38号 昭和23年6月26日
^ 高見澤 1976, pp. 172
^ 高見澤 1976, pp. 171

参考文献

鈴木伝助『一書の人北村徳太郎』
教文館、1970年。

高見澤潤子「時代の良心―北村徳太郎」『永遠のあしおと―真実な神に出会った人たち』主婦の友社、1976年、153?172頁。

公職
先代
栗栖赳夫 大蔵大臣
第53代:1948年次代
泉山三六
先代
苫米地義三 運輸大臣


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