1958年の衆院議員選挙長崎2区には、北村徳太郎(自民前、元大蔵相、71、佐世保市在住)と同姓同名の北村徳太郎(無所属新、会社役員、45、松浦市在住)が立候補。日本初の同姓同名候補による選挙戦となった。長崎県選挙管理委員会は、按分票による開票の混乱を避けるため、有権者に対し、両者の区別がつくような文言(「前大臣の」「佐世保の」「無所属の」「40代の」など)を投票用紙に記入するよう呼びかけた。当初、開票作業の混乱が予想されたが、得票数は前職・北村が5万6千票強の貫禄勝ち。新人の北村は4百票に満たない泡沫候補であった。
エピソード
大蔵大臣時代の新人官僚に本名の平岡公威として大蔵省に在籍していた三島由紀夫がいる。前任者の栗栖赳夫の時に三島は大蔵省に入省した。
中曾根康弘は、「日本が第二次世界大戦後の混乱と困窮の最悪状態にあった時、神は二粒の麦の種を国会に与えた」と言った。その一人は、敗戦直後に成立した片山内閣の片山哲首相であり、もう一人は保守党の北村徳太郎で、この二人のクリスチャン政治家が「政治は道義なり」と、動乱期の国内情勢の中で粉骨砕身したことを評価した[1]。
脚注[脚注の使い方]^ a b 高見澤 1976, pp. 154
^ a b 高見澤 1976, pp. 155
^ 高見澤 1976, pp. 156
^ 高見澤 1976, pp. 157
^ 高見澤 1976, pp. 158
^ 高見澤 1976, pp. 159
^ 高見澤 1976, pp. 163
^ 高見澤 1976, pp. 166
^ 高見澤 1976, pp. 167
^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第38号 昭和23年6月26日
公職
先代
栗栖赳夫 大蔵大臣
第53代:1948年次代
泉山三六
先代
苫米地義三 運輸大臣