北朝_(日本)
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そのために後光厳天皇は公家たちの「忠節」によって人事や家門の継承、家領の安堵などを定め、室町幕府がその実施を保障する(ただし、当事者の公家と幕府との関係によって武家執奏を行って加減を図ることがある)ことで求心力の維持を図ろうとした。この路線は貞治年間に幕府軍が優位に立つことで効力を生じることになり、以後も基本的に継続されていくことになる。だが、その過程で去就の判断を誤って没落した家や反対に家格以上の待遇を得られる家も登場し、更に幕府との関係による家の浮沈も絡んで、公家社会の地図は大きく変化することになる。特に他の村上源氏諸家の没落に伴う久我家源氏長者独占の確立や勧修寺流日野流の名家の台頭という室町期公家社会特有の現象も、元をたどれば、後光厳天皇擁立やその後の京都脱出(地方下向)に際して当時の当主が北朝方に奉仕し、天皇や室町幕府から「忠節」を評価されて信任を得ていたという歴史的背景と深く関わっていた[12]将軍義満、管領細川頼之時代には武家執奏による朝廷への口入がみられるようになる。
北朝天皇家の分裂

光厳院政下、持明院統の傍流に位置づけられていた崇光天皇であったが、幽閉中に琵琶の秘曲を崇光に伝授し、光厳法皇は崇光上皇を持明院統の正嫡とした[13]。そして崇光は、応安3年(1370年)に正嫡である実子栄仁親王の即位を幕府に働きかける。しかし、後光厳天皇も自身の皇子の践祚を望み、朝廷は室町幕府の判断をもとめ、細川頼之が「皇位のことは聖断次第」という趣旨の回答をしたため、緒仁親王(後円融天皇)の即位が実現した[14]。だが、既に貞治2年(1363年)の段階で光厳法皇は崇光上皇の子孫への皇位継承を意図して自身が領していた持明院統伝来の所領の大半(長講院領・法金剛院領・熱田社領ほか)を崇光上皇に譲渡しており、崇光上皇と栄仁親王(伏見宮家)の存在が正統性においても経済的基盤においても弱い後光厳天皇流を圧迫した。これに対して、室町幕府と後光厳天皇は光厳法皇と崇光上皇へ出仕する公家を処分する(『園太暦』延文2年2月19日)として光厳法皇らを牽制している。応永3年(1396年)の崇光上皇の晩年に、室町幕府が伏見宮領を悉く奪って後小松天皇に献上しようとした背景には、こうした持明院統内の皇位を巡る確執があり、両派の対立は称光天皇の早世による後光厳流皇統の断絶を超えて、後花園天皇の代まで続くことになる。
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後小松天皇

後亀山天皇

明徳3年(1392年)、南朝の後亀山天皇との和睦が成立し、神器は返還され(北朝から接収したものと、南朝がもとから持っていたとするもののどちらなのかははっきりとしない)、明徳の和約によって南朝が北朝に吸収される形で南北朝合一が実現。しかし、後小松天皇は南朝の皇位を認めず、足利義満との講和で決められた譲位の形での三種の神器の渡御は単なる移動の形で行われ、義満が強引に決めた後亀山への尊号宣下も不即位天皇に贈られるものとして行われた。
北朝のその後後花園天皇

その後、称光天皇の崩御によって後光厳天皇の皇統が血統的に断絶すると、北朝3代崇光天皇の曾孫にあたる後花園天皇が後小松上皇の猶子として践祚した。後花園天皇は、後光厳院流皇統の後継者としての立場を明確にしたが、実父の貞成親王を兄とした上で尊号(太上天皇)を宣下した。後光厳院流皇統を存続させつつ、崇光院流皇統も温存させるためであった[15]。こうして、百年近くに及んだ後光厳院流皇統と崇光院流皇統の争いに終止符が打たれた[15]。以降、北朝に連なるこの皇統が第126代天皇徳仁を含めた現代の皇室へと続いている。

1911年明治44年)、いわゆる南北朝正閏論を収拾するため、明治天皇の勅裁により南朝が正統とされた。これにより、明治以前まで歴代天皇とされていた北朝の6代6人の天皇のうち、後小松天皇を除く5代5人は、122代120人(現在は126代124人)の歴代天皇に含まれないこととなった。しかし、その称号と祭祀はこれまで通りとされた。戦後においても歴代天皇の数え方は南朝に依拠するものの、南北双方の朝廷を認めるのが通説とされている。
北朝の三種の神器三種の神器(イメージ)

建武政権崩壊後の後醍醐天皇は、吉野に潜幸した後、自身が持っている三種の神器が本物であり、北朝の光明天皇に渡した三種の神器は偽物であると称したとされる。これに基づいて『大日本史』においては南朝を正統とし、明治政府も南朝を正統したが、三種の神器の真偽や所在が天皇の正当性に繋がるという考え、また、そもそも南朝が本物の三種に神器を持っていたとすること自体に、古くから異議が唱えられてきた。
各天皇の三種の神器南北朝時代の三種の神器の移動を図式化したもの。
光厳天皇

元弘元年9月20日に践祚した光厳天皇は、初め三種の神器が揃わなかった。八咫鏡は宮中の内侍所に残っていたが、天叢雲剣八尺瓊勾玉は後醍醐天皇が持ち出していた。践祚の際には昼御座御剣を天叢雲剣の代用としたという[16]。しかし、後醍醐天皇が捕縛されると、10月6日に剣璽(天叢雲剣と八尺瓊勾玉)が光厳天皇に引き渡された[17]


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