北朝鮮映画
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『道はひとつだ』(1958)、『誠実な人々』(1959)、『彼の願い』(1959)、『黄昏』(1961)、『これは伝説ではない』(1962)、『解放された私の希望』(1964)、『彼らはこのように闘った』(1964)、『成長の途上にて(後編)』(1965)、『温井嶺』(1965)、『崔鶴信の一家』(1966)、『銀波山の一家』(1968)、『社会主義祖国を訪れた英洙と英玉』(1969)、『敵陣の中のツツジ』(1970)、『妻の職場』(1970)、『我ら宣伝員』(1970)、『ある看護婦の物語』(1971)、『楽しきわが職場』(1975)、『輝く世代』(1979)、『初めて行く道』(1980)、『ある党員の物語』(1981)、『妙香山の出会い』(1982)、『試練を乗り越えて』(1983)、『生命水』(1985)、『偉大な懐』(1986)。
朴学

パク・ハク(1914-1982) 平壌出身。大学中退後、劇団や映画会社で俳優生活を始め、日本に渡り、島津保次郎監修・安哲永監督の『漁火』(1938)、『旧恋』などに出演し、独立後も韓国で『かもめ』(1948)などに出演していた。越北し『我が故郷』(1948)に巡査役で出演。その後『再び前線へ』(1952)、『偵察兵』(1953)、『飛行機狩り』(1953)、『二度とあのようには生きられない』(1956)、『海が呼んでいる』 (1956)、『峻嶺を越えて』(1959)、『豆満江』(1959)に出演。1954年に功勲俳優となる。演劇『偉大な力』に支配人役で出演。朝鮮芸術映画撮影所で監督となり、1970年より白頭山創作団に配属。『分界線の村で』(1961)で監督デビューし人民賞を受ける。以後の監督作に『赤い煽動員』(1962)、『禿盧江畔に咲く花』(1964)、『ある分隊長の物語』(1965)、『村人たちの中に』(1968)、『我々には祖国がある』、『金剛山の乙女』(1969)、『われら幸せ歌う』(1970)、『花を売る乙女』(1972)『金姫と銀姫の運命』(1974)、『世に燃えあがる炎』(1977)、『初めての武装隊伍にあった物語』(1978)、『未来を咲かす愛』 (1982)がある。金日成賞桂冠人、労力英雄、人民俳優。墓地は愛国烈士陵。
厳吉善

オム・ギルソン(1934.3.15-2005.7.8.) 人民芸術家。労働英雄。金日成賞桂冠人。咸鏡北道生れ。平壌芸術学院卒。23歳より劇団に所属していたが、1959年より芸術映画撮影所に異動。1962年、平壌映画演劇大学卒。77年より監督業兼任となる。出演作は『戦友』(1958)、『赤いリボン』(1959)、『金剛山の乙女』(1959)、『カモメ号の青年たち』(1961)、『赤い煽動員』(1962)、『大地の息子(1-2)』(1963)、『共青員の歌』(1964)、『温井嶺』(1965)、『成長の途上にて』(1965)、『遊撃隊の五兄弟』(1968-69)、『ある自衛団員の運命』(1970)、『金姫と銀姫の運命』(1974)、『世に燃えあがる炎』(1977)、『初めての武装隊伍にあった物語』(1978)、『大紅湍責任秘書(1-3)』(1997)、『大紅湍責任秘書(4-6)』(192001)。1980年に人民俳優、金日成勲章。1990年、白頭山芸術団団長。主な監督作は、『安重根と伊藤博文』(1979)、『白頭山』(1980)、『永遠なる戦友』(1985)、『朝鮮の星(1、10)』(19-87)、『民族の太陽(1)』(1987)、『輝かしい朝』(1990)、『革命闘士、孔栄』(1992)がある。1992年4月に第9期代議員。1998年より平壌芸術映画撮影所総長を務める。夫人は女優の金賢淑。娘のオム・ヒョニは俳優、息子のオム・ジョンミンは監督。死後、愛国烈士陵に安置された。
金聖教

キム・ソンギョ(1927.2.15-1992.5.13) 功勲芸術家。咸鏡南道プクチョン郡ヨンファ面チャンサン里出身。貧農の家に生まれる。小学校卒業後、洋服屋で働く。東京芸術大学に入学。日本名は山崎聖教(やまざきせいきょう)。同大学の日本共産党細胞の映画サークルに参加した後に入党。学費未納と思想的問題で退学。日本で亀井文夫の助監督をしていたが、60年代初めに帰国。70年代中期を代表する監督。妻の馬竹姫も映画監督。主な監督作は、『フンブとノルボ』(1963)、『限りない私の希望』(1964)、『鉄道の上で』(1966)、『山頂の鷲たち』(1975)。
李徳奎

リ・ドッキュ。江原道出身。主な監督作は、『鐘の音』(1965)、『村の保衛者』(1969)、『学父兄』(1971)、『この水の勢いを防ぐことはできない』(1972)、『クムトル少年』(1968)、『陽光に乗せていく』(1976)。
朱東月(チュ・ドンウォル)
高鶴林

コ・ハンリム(1934.2.4-2009.) 功勲芸術家。人民芸術家。済州島生れ。渡日し幼年期より日本で育つ。東京朝鮮中高級学校を経て日本大学芸術学部に進学するが三年で中退。朝鮮総聯の記録映画製作にたずさわる。1960年1月に帰国第一次船で帰国。平壌演劇映画大学卒。1965年に『玉花』でデビュー。主な監督作は『玉花』(1965)、『我ら列車販売員』(1972)、『生活の道』(1977)、『名もなき英雄たち』(1979-82)、『銀のかんざし』(1985)、『春の日の雪解け』(1985)、『私が見た国』(1988)、『心に残る人』(1989)、『君のための交響詩』(1991)、『民族と運命(1、3-4)』(1992)、『民族と運命(14-16)』(1993)、『民族と運命(19-21)』(1994)、『民族と運命(22-24)』(1995)、『主人になった心』(1996)、『民族のますらお』(1999)、『生のこだま』(2000)、『鉄の鎖で縛ることはできない』(2002)、『私が見た国(2)』(2009)。息子の高一は4・25芸術映画撮影所の監督、高一赫は朝鮮芸術映画撮影所のカメラマン。
金徳奎

キム・ドッキュ。人民芸術家。主な監督作は、『ある作業班で』 (1968)、『空中舞台』(1972)、『遊園地の一日』(1975)、『大地に根を下ろす』(1976)、『鴨緑江を越えても』(1982)、『親衛戦士』(1982)、『未来を咲かす愛』(1982)、『ある分隊長についての物語』(1984)、『長山里の女たち』(1985)、『彼らの青春時代』 (1986)、『我らの代議員』(1987)、『ゆりかご』(1988)、『昨日も今日も』(1989)、『陽射しが恋しくて』 (1991)、『山犬』(2000)、『第一バイオリン手』(2001)、『九峰嶺の一家』(2002)。
チャン・ウンガン

主な監督作は、『見えない要塞』(1965)、『川は流れる』(1967)、『永遠の戦士』(1972)、『新しい世代のために』(1974)、『再会した戦友』(75)、『初めての通話』(1978)。
鄭建朝

チョン・ゴンジョ。人民芸術家。『姉の問題』(1982)、『クァンジュの叫び』(1986)、『再び始まったわが家の問題』(1987)、『叔父の家の問題』(1988)、『お元気で、私の恋人よ』(1989)、『誰も知らない』(1990)、『もう会うことのない、愛する私のカンボジアよ』(1990)、『ありがたい乙女』 (1994)、『二人の兵士』(1995)、『密林がざわめく(1-8、11-12)』(97-2000)、『民族と運命(59-60/農民編1-2)』(2002)、『瞬間を待って』(2004)、『幸福の車輪』 (2011)。*『プルガサリ 伝説の大怪獣』(87)のスタッフだったため、申相玉の亡命後は同作品には公式的には監督としてクレジットされている。
朴正柱

パク・チョンジュ(1944-) 脚本家。功勲芸術家。全羅南道光州出身。1967年、平壌演劇映画大学卒業後、朝鮮芸術映画撮影所に入所。朴学監督のもとで演出修行。1979年よりモスクワ映画大学に学んだ。1982年より朝鮮芸術映画撮影所。1991年、朝鮮映画祭91のゲストとして来日。主な監督作に『豊年の風』(1974)、『まっすぐな道』(1983)、『女教員』(1986)、『遥かなる木霊』(1988)、『たくましい木』(1990)、『高い山頂で』(1990)、『民族と運命(1,5-10)』(1992)、『民族と運命(14-16)』(1993)、『民族と運命(19-21)』(1994)、『民族と運命(22-24)』(1995)、『大紅湍責任秘書(1-3)』(1997)、『イム秘書』(1998)、『民族と運命(48-50)』(2001) 、『民族と運命 昨日、今日、そして明日編(第6,7部)』(2002)、『民族と運命(61-62)』(2003)。
林昌範

リム・チャンボム(1942-) 別名:リム・フン。江原道出身。1976年、平壌演劇映画大学演出学科卒。朝鮮芸術映画撮影所所属。軽い喜劇を得意とするが、重厚なメロドラマの演出もそつなくこなす。早撮りでも知られる職人派。コメディ映画『わが家の問題』シリーズのうちで最もヒットした『嫁と姑(妻の実家の問題)』(1980)によって、その演出力を高く評価された。主な監督作品は、『太鼓は私が叩く』(1978)、『私の息子』(1980)、『愛の歌』(1982)、『二人の船長』(1982)、『十五少年物語』(1983)、『旅先で会った娘』(1983)、『夢多き乙女』(1984)、『春の日の雪解け』(1985)、『怪傑、洪吉童』(1986)*リム・フン名義/協助監督、『オモニの願い』(1987)、『魅かれる青年』(1988)、『睦まじい灯り』(1989)、『歌声響く家庭』(9190)、『三回目の金メダル』(1990)、『バード』(1992)、『春を抱いて暮らす娘たち』(1994)、『偉勲の道』(1996)、『青い絹の上で』(2001)、『夫婦支配人』(2001)、『金津江』(2002)、『愛の街』(2004)。
洪光淳(ホン・グァンスン)
金吉仁(キム・ギリン)
金吉夏(キム・ギルハ)
崔富吉(チェ・ブギル)
張英福(チャン・ヨンボク)
李寛岩(リ・グァンナム)
高一(コ・イル)
呉恵淑(オ・ヘスク)
張仁学(チャン・インハク)
姜仲模(カン・ジュンモ)
彪光(ピョ・グァン)
李柱浩(リ・ジュホ)
主要俳優
朱仁奎

チュ・インギュ(1901-1956.9.) 映画男優。咸鏡南道出身。日本統治時代から俳優として活躍。羅雲奎監督の『アリラン』(1926)で呉基浩を演じた。その後『風雲児』(1926)、『開拓者』(1925)などに出演。独立後、平壌の国立映画撮影所(現・朝鮮芸術映画撮影所)の初代所長を務め、映画『我が故郷』(1948)の制作を指導した。『沈清伝』( )、『アリラン』(1926)、『楽園を探す群』(1927)、『風雲児』(26)、『夜明け前』( )、『角のとれた牛』(1927)、『盗賊』( )、『福地萬里』(1941)以上植民地時代の作品。『山犬』 (1956)。宗派分子と批判され、その調査中に拷問に耐えきれず自殺を遂げた。
文藝峰

ムン・イェボン(1917-1999.3.26) 人民俳優。功勲俳優。忠清南道出身。李奎煥監督の『主なき渡し舟』(1932)で羅雲奎の相手役でデビュー。清楚な魅力で『春香伝』(1935)など多くの映画でヒロインを演じ、日本でも映画雑誌の表紙を飾った。植民地時代は『君と僕』(1940)など日本の国策映画への出演も余儀なくされた。独立後の1948年に夫、息子とともに越北、朝鮮映画の第一作『我が故郷』(1948)に主演。以後多くの映画で活躍した。1948年最高人民会議一期代議員選出。1952年北京平和会議に出席。1958年朝・ソ親善協会中央委員。1961年祖国平和統一委員。1967年から復古主義、宗派主義者と批判され、1970年代末までは一線から外され巡回劇団に異動となっていた。1980年代に復帰。1982年人民俳優。1985年、高鶴林監督の『銀のかんざし』のロケで来日した。1991年、祖国統一汎民族連合の北側本部中央委員に選出。国旗勲章第一級。平壌にて死去。朝鮮のリリアン・ギッシュとも称される。主な出演作は、『主なき渡し舟』(1932)、『春香伝』(1935)、『薔薇紅蓮伝』(1936)、『人生航路』(1937)、『旅人』(1937)、『授業料』(1940)、『君と僕』(1940)、『家なき天使』(1941)、『志願兵』(1941)、『朝鮮海峡』(1943)、『愛と誓ひ』(1945)*以上植民地時代の作品。『我が故郷』(1948)、『少年パルチザン』(1951)、『パルチザンの乙女』(1954)、『新婚夫婦』(1955)、『白頭山が見える』 (1956)『金剛山の乙女』(1959)、『春香伝』 (1959)、『赤い花』(1963)、『侵略船シャーマン号』(1964)、『成長の途上にて』(1965)、『春香伝』(1980)、『二人の船長』(1982)、『我らはみな一つの家族』(1983)、『帰らざる密使』(1984)、『青い松』(1984)、『生命水』(1985)、『銀のかんざし』(1985)、『春の日の雪解け』(1985)、『光州は叫ぶ』(1986)、『偉大なる懐』(1986)、『君のための交響詩』(1991)、『バード』(1992)、『われら新世代』(1996)、『後日の私の姿』(1997)。
沈影

シム・ヨン 京畿道出身。1930年代より、演劇市場、高協などの劇団で舞台俳優として活躍。国策映画『君と僕』(1940)に出演。朝鮮の独立後に越北。『我が故郷』で抗日闘志の金学準を演じた。「文化芸術人スパイ団事件」に連座させられ粛清されたと言われる。『守一と順愛』(1931)、『海よ、語れ』(1935)、『銀河に流れる情熱』(1935)、『美しき犠牲』()、『芳娥打鈴』()、『君と僕』(1940)、『福地萬里』(1941)、『望楼の決死隊』(1943)以上植民地時代の作品、『我が故郷』(1948)、『郷土を守る人々』(1952)、『偵察兵』(1953)、『パルチザンの乙女』(1954)、『見えない戦線』(1965)。


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