北方戦争
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北方戦争(ほっぽうせんそう、英語: Northern War、1655年 - 1661年)は、17世紀に起きたスウェーデンバルト帝国)とその他の国々、ポーランド・リトアニア連合大洪水時代1648年 - 1667年)、モスクワ大公国ロシア・ツァーリ国1656年 - 1658年)、ブランデンブルク=プロイセン1657年 - 1660年)、神聖ローマ帝国1657年 - 1660年)、そしてデンマーク=ノルウェー1657年 - 1658年1658年 - 1660年)との戦争を一纏めにした時に使われる。
名称

この戦争には様々な別名が各国に存在する。例えばポーランドにおいては、「大洪水時代」がしばしばこの一連のスウェーデン、ブランデンブルク、ロシア、トランシルヴァニア、そしてウクライナ・コサックとの戦争を指す用語として使われており[3]、デンマークにおいては「カール・グスタヴ戦争」として知られている。これらの戦争において、イングランドは一貫してスウェーデンの同盟国として行動し、ネーデルラントはイングランドに対抗するため逆の立場でこの戦争に関与した[4]
戦闘の推移
前史

北方戦争はスウェーデンが起こしたものだが、数年前に勃発したコサックの反乱(フメリニツキーの乱)によりポーランド・リトアニア連合が巻き込まれた大洪水時代と言う内戦に、近隣諸国が介入したものである。特にスウェーデンはポーランドとの王位継承権問題を抱えており、スウェーデンの新王朝プファルツ家の王位をポーランド王に認めさせるという意図もあった。スウェーデンは、周辺諸国にも火種を抱えていた。東方のモスクワ国家は西欧の窓であるバルト海の出口を奪われていた。デンマーク=ノルウェーは、スウェーデンとの遺恨が前世紀より続いていた。両国は隙あらばスウェーデンとの戦争を伺っていた。フメリニツキーの乱ではモスクワ国家とスウェーデンは共闘関係にあったが、スウェーデンがリトアニア大公国ケダイネイ合同を結び連合王国(共和国)に影響力を行使する事は、必然的にスウェーデンによる脅威が強まる事を意味し、モスクワ国家との対立関係はさらに深まる事となった。静観の立場をとるデンマークも連合王国でのスウェーデンの動向を伺っていた。一方でスウェーデンがバルト海世界で影響力が増せば増すほど新王家の国王は、周辺国への野心を高まらせて行く事となる。大洪水時代という未曾有の内戦は、近隣諸国の介入による国家間戦争に至り、スウェーデンによる侵攻は、結果的に北方諸国間による抗争を激化させて行く事となる。
開戦

この戦争は、当初はスウェーデンが圧倒し、後の両国との講和条約により、プファルツ王朝を認めさせた事と、1629年に成立したスウェーデン領リヴォニア(英語版)(リヴォニアのリーフランド)を正式にスウェーデン領として認めさせる事が出来た。しかしスウェーデンによる脅威から、連合王国の徹底抗戦と周辺諸国の対スウェーデン戦争を呼び起し、戦域は拡大し、多大な犠牲を強いられる事となった。特にポーランドとの同君連合下にあったリトアニア大公国とのケダイネイ合同1655年)は、完全に失敗に終わる事となった。これはスウェーデン国王自身の誇大化した野心と連合王国の分割、そしてスウェーデン軍による連合王国の都市、農村への略奪・破壊行為が連合王国国民の怒りを買い[5]、時勢的にフメリニツキーの乱が一段落した事もあって、連合王国の総力を挙げての大反撃に転換し、スウェーデン軍はその後軍事的敗退を喫し、1657年に連合王国から追い払われる結果となったのである。これはスウェーデンの新王家であるプファルツ王家にとっては大失態であったが、ポーランド側にとっても軍事的にも政治的にも大転換の余力は無かった。スウェーデン軍の狼藉により連合王国の経済は圧迫され、国土の疲弊をもたらした上、スウェーデン軍を追い払っても尚、ウクライナ・コサックロシアとの戦争が継続したからである。スウェーデン軍は、デンマークとの戦争激化によって1659年に完全撤退したが、ポーランドとの和平が成るまではポーランドの貿易港を圧迫し続けた。とは言え、王位継承問題については、スウェーデンの最低限の戦争目的は果たされる事となる。

モスクワ国家はスウェーデンのポーランドでの成功をみて脅威を感じ、ポーランドとの戦争を一時停止し、1656年からスウェーデンと交戦状態に入った。モスクワ国家はスウェーデンがポーランドで孤立している間、戦争で優位に立ち、フィンランド、エストニア、ラトヴィアなど広大な領土の占領に成功した。しかしウクライナで親ポーランド派が反旗を翻し(反頭領の反乱)、ポーランドも停戦を破棄してきたため、この危機に対応する必要からモスクワ国家はスウェーデンと1658年末に休戦。モスクワ国家は休戦後もスウェーデン東部領土を占領下に置いていたものの、スウェーデンからしてみれば交戦状態からは免れており、危機的状態からは脱する事となった。

デンマークはポーランドでのスウェーデンの失態を見逃さず、この機に乗じて宣戦布告するも、スウェーデン軍は迅速で一気にユトランド半島に侵攻し、開戦わずか数ヶ月でユトランド半島を制圧した(カール・グスタフ戦争)。デンマークは首都を半島からシェラン島に戻し、優位な海軍をもって防衛しようとしたが、1657年から1658年の冬の大寒波がデンマークを襲い、艦隊も氷に閉ざされた。さらにシェラン島に至る海峡も凍結した事で、スウェーデン軍は「氷上侵攻」を敢行し、首都コペンハーゲンは包囲されデンマークは降伏した。1658年2月26日ロスキレ条約を締結。ロスキレ条約の結果、デンマークはスウェーデンに領土を割譲したものの、デンマークがオランダと密約したと言う不穏な情報がスウェーデンにもたらされ、1658年11月、オランダ艦隊はスウェーデン艦隊を撃破したあげく、コペンハーゲン防衛のための陸軍部隊を展開した。


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