北斎漫画
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編初摺り刊行年丁数[注釈 3]序文奥付主となる版元出典
初編文化11年(1814年)27半洲散人有り永楽屋[12]
二編文化12年(1815年)30六樹園主人有り角丸屋[13]
三編文化12年(1815年)29蜀山人有り角丸屋[14]
四編文化13年(1816年)29?山漁翁有り角丸屋[15]
五編文化13年(1816年)30六樹園有り角丸屋[16]
六編文化14年(1817年)30食山人有り角丸屋[17]
七編文化14年(1817年)33式亭三馬有り角丸屋[17]
八編文政元年(1818年)33?山有り角丸屋[18]
九編文政2年(1819年)33六樹園有り角丸屋[19]
十編文政2年(1819年)33?櫚台老人有り角丸屋[20]
十一編不明30柳亭種彦無し永楽屋[21]
十二編天保5年(1834年)29芍薬亭有り永楽屋[22]
十三編嘉永2年(1849年)[注釈 4]29山禽外史小笠無し永楽屋[23]
十四編不明29百信翁無し永楽屋[25]
十五編明治11年(1878年)29片野東四郎有り永楽屋[26]
浮腹巻図。『北斎漫画』四編

初編から三編までは北斎の手控帳や絵日記などからの抜粋と見られ、人物や山川草木魚虫などさまざまな形態描写が中心となっている[4]。なお、二編から十編については、刊行に際して次のような広告が打ち出されていたことが明らかとなっており、四編以降はある程度のテーマをもたせた内容としてシリーズを構成していたことが分かっている[27]

編広告文
二編・三編興に乗じ心にまかせてさまざまの図を写す篇を続て全部に充こと速也
四編草筆を加へ席上の臨本にしからしむることを要とす
五編花表堂塔迦檻月卿雲客舘斉房舎を委くうつしてなをつきざるハ編々にもらすことなし
六編剣法鎗法弓馬炮術等稽古のかたちをうつしてつまびらか也尤武徳の尊きを表せる一書と云べし
七編国々名勝の地風雨霜雪のけいしよくをうつす
八編前編に洩たるを補ひ且錦繍養蚕の業をゑがく
九編和漢の武者および貞婦烈女のたぐひを戴す
十編神仏並に貴僧高僧幻術外風流の人物等をしるす

四編は歴史上の人物や花鳥風景が中心となっているが、中でも潜水夫など水の中に入って活動する人々を模写した浮腹巻図はエドガー・ドガが構図を参考としたと見られる作品が残されていることで知られている[4]。五編は鳥居や鐘楼、屋根といった建造物を中心に仏具や人物などの絵図が収められている[4]。六編は弓、馬、槍、砲などの武具や柔術、空手などの武術を中心として構成されている[4]。七編では諸国の名所や風景などが一枚絵で描かれている[4]。八編では人相や身体の諸態の絵図の他、養蚕機器や建築機器などの機材、奇岩風景画などが描かれている[28]。九編は和漢の人物、情婦などの美人を中心に構成されている[28]。十編は怪談、亡霊、仙人などの非実在物を中心として構成されている[29]。十一編から十五編には自然の風景画や庶民の生活を切り取った風景画などを中心として様々な絵図が盛り込まれている[30]
成立史
背景『伝神開手 北斎漫画 全』と記された『北斎漫画』初編の初版本。

それまで使用していた宗理の号を門人に譲り渡して葛飾北斎を名乗った北斎は、40代後半に入ってますます円熟味を増していき、江戸の流行に合わせて文化初年ごろより読本挿絵制作に傾注し、曲亭馬琴らとともに数多くの作品を刊行していた[31]。こうした仕事がひと段落した文化9年(1812年)ごろ、北斎は関西方面へと旅に出たとされている[32]。旅行の帰路で名古屋の門人[注釈 5]牧墨僊[注釈 6]に逗留し、その間に三百余図の版下絵を描き上げた[32]。墨僊宅への立ち寄りは偶然ではなく、事前に請われてのものではないかと推察されている[35]。こうした通説の根拠は『北斎漫画』初編、半洲散人[注釈 7]の序文によるもので[32]、そこには次のように書かれている。(前略)北斎翁の書におけるは、世の知る所也、今秋翁たまたま西遊して我府下に留り、月光亭墨仙と一見相得て驩はなはだし、頃、亭中に於て品物三百餘図をうつす。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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