北斎漫画
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旅行の帰路で名古屋の門人[注釈 5]牧墨僊[注釈 6]に逗留し、その間に三百余図の版下絵を描き上げた[32]。墨僊宅への立ち寄りは偶然ではなく、事前に請われてのものではないかと推察されている[35]。こうした通説の根拠は『北斎漫画』初編、半洲散人[注釈 7]の序文によるもので[32]、そこには次のように書かれている。(前略)北斎翁の書におけるは、世の知る所也、今秋翁たまたま西遊して我府下に留り、月光亭墨仙と一見相得て驩はなはだし、頃、亭中に於て品物三百餘図をうつす。(後略) ? 『北斎漫画』初編序文より[12]

また、北斎が文化10年(1813年)に年頭の挨拶と滞在中の礼を綴った墨僊宛ての書簡が残されていることから、墨僊宅に滞在した期間は文化9年の秋から年内にかけてのおよそ半年間であったとされている[37]。こうして残された版下絵が名古屋の版元永楽屋東四郎(東壁堂)の目に留まり、文化11年(1814年)の『北斎漫画』初編刊行へと繋がった[38]。本書の企画は、北斎の師である勝川春章の友人であった鍬形寫ヨの『諸職画鑑』、『略画式』等から着想を得たと言われている[39][40]。また、林守篤『画筌』や、清朝の画譜『芥子園画伝』からの影響も指摘されている[39]。一方で北斎研究者の永田生慈は『北斎漫画』刊行に至った主たる動機として、「門人の増加に伴い、都度肉筆の絵手本を与える不便さを解消したかった」「全国に散在した多くの門人・私淑者に葛飾派の画様式を普及させようと企図した」「絵師に限らず各分野の職人が北斎の挿絵を下図として活用していたことから、その図案集として刊行した」という三点を挙げている[41]『北斎漫画』初編奥付。「北斎改葛飾戴斗」の名が確認できる。
初編刊行

文化11年(1814年)1月、序文を含めて全二十七丁、約252図を収めた『北斎漫画』初編が永楽屋より刊行された[36]。北斎の描いた版下絵は門人の東南西北雲らによって出版用にサイズなどの手直しがなされた[42]。本書は当初、一冊本として刊行されたと見られており、初版本とされる薄い紅色で書かれた表題には『伝神開手 北斎漫画 全』と記されていた[43]。なお、この表題は二編以降が刊行されたタイミングで「初編」の文字が入った版へと摺り直しが行われている[44]

現代の漫画と異なり「筆のおもむくままに描く」という意味を指す「漫画」という成語は[45]、半洲散人の序文「如夫題するに、漫画を以てせるは、翁のみづからいへるなり。」[12]より、北斎が命名した成語であるとされる向きもあるが、江戸風俗の研究を行っていた漫画家宮尾しげをは、山東京伝が「家の前を往来する人々の姿を漫画する」と表現しているとしてこの説を否定している[43]。美術史家の磯崎康彦は、鳥羽絵や墨僊の『墨僊叢画』などを意識して「漫画」という表題を付けたのではないかと推察している[42]。永田は宮尾を支持しつつも、「漫画」という言葉を一般に浸透させ、ポピュラーなものにしたのは間違いなく北斎の功績であると指摘している[43]「漫画三編」と表題をあしらった絵。『北斎漫画』三編
続編刊行

初編の『北斎漫画』を見た江戸の版元角丸屋甚助(衆星閣)は、「北斎の絵手本が1冊だけとは勿体ない」としてシリーズ化を提案し、二編から十編までは相合版[注釈 8]として角丸屋が主体となり刊行する運びとなった[38]。ただし、角丸屋が主体へと切り替わったタイミングで十編までの構想が完了していたかどうかは疑問が残る資料も遺存しており、明らかとなっていない[47]。続編の話を貰い受けた北斎は全十編としてその構成を考えてこの仕事に取組み、年に2冊ほどのペースで文化12年(1814年)から文政2年(1819年)までの期間で十編までの『北斎漫画』刊行を行った[48]。全十編刊行後も『北斎漫画』の人気は衰えることがなく、十一編の序文で柳亭種彦が「再び筆を下して漏れたるを拾ひて」と記した通り二十編までの続編刊行が計画されていた[4]。しかしこの構想は版元角丸屋の経営状況悪化に伴い実現することはなく、『北斎漫画』の版木は永楽屋へと売却された[49]

その後の経緯は明らかとなっていないが、天保5年(1834年)までに十一編と十二編が、北斎没年の嘉永2年(1849年)に十三編が、没後の明治11年(1878年)までに十四編、十五編が刊行された[24][注釈 9]。十一編は版元などの記載が無いが二十八丁表に東の字、裏に楽の字が見えることなどから永楽屋によるものと見られている[24]。刊行年は諸説あるが永田や美術史家の楢崎宗重は、遺存している北斎書簡の記述などから文政6年(1823年)以降に刊行されたのではないかと推察している[50]。十二編は序文の記載などから天保5年刊行とされており、版元は永楽屋と角丸屋の両方の版が遺存しているため、不明確である[51]。永田は永楽屋が版木を有し、送られてきた本に角丸屋が奥付を付けて販売したのではないかと推論しており、同様の関係が十一編にもあったのではないかと指摘している[51]。また、十三編も序文から北斎没年の嘉永2年に永楽屋から刊行されたと見られている[52]。十二編から15年の歳月がかかった理由については判っていないが、嘉永元年から2年にかけて永楽屋から北斎の刊行物が集中的に発売されており、十三編もその一連の刊行物の中のひとつであったとされている[53]。残りの十四編、十五編は一般的に明治期に入ってからの刊行と見られ[注釈 10]、北斎の作品だけでなく沼田月斎織田杏斎らの図案が含まれている[53]。また、『北斎画譜』や『伝心画鏡』などからの転載も見られる[53]。ただしこれは『葛飾北斎伝』にて飯島虚心が織田杏斎から聞き取った話として掲載したものが典拠とされており、事実かどうかの確定はしていない[54]
影響

『北斎漫画』の刊行部数の記録は無いため、どの程度売れたのかは分かっていないが、絵手本として職工が買い求めただけでなく、観賞用として広く庶民に支持されたと見られる[55]。二編以降がすぐさま制作されたことからも、その人気の程が窺える[56]。角丸屋から永楽屋に版木が売却された際には使い物にならないほど摩耗していたようで、版木の彫り直しも行われている[49]。また、これにあやかって『北斎漫画』の内容等を剽窃した『北斎画譜』という刊行年不明、作者不明の偽本が河内屋太助(文金堂)から刊行されている[56]

またオランダ商館医のドイツ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによって西欧に持ち込まれ、日本国外にも広く影響を与えた[57]。なかでもジャポニスムとして広く受容されたフランスの印象派芸術家たちには多大なる影響を及ぼし、エドガー・ドガメアリー・カサットら、多くの芸術家が『北斎漫画』から着想を得た作品を残している[58]『北斎漫画』初編
寝そべる男カサットの『青い肘掛け椅子に座る少女』(1878年)


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