北属期
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移住した官僚とその子孫は次第に土着化していき、在地の封建勢力と共に支配階級を構成する[11]。漢から派遣された統治者の中には寛大な政治を行って民衆から慕われた者もいたが、苛烈な搾取を行う官僚が多く、漢の支配に対する反感は強くなっていった[12]

王莽の簒奪と同じ時期に交趾太守を務めた錫光(ベトナム語版)(チ・クアン)は中国文化の普及を進め、儒教をベトナムに導入したと言われている[13]。錫光は中央の混乱を避けて交州に逃れた官吏と学者たちを受け入れ、彼らの進言に従って学校を建設し、漢と似た行政制度を導入した[13]

40年、ハノイ西の土着の首長の娘である徴姉妹(ハイ・バー・チュン)が、後漢の統治に対して反乱を起こす。徴姉妹の反乱は強権的な漢の港市である交趾郡に対する紅河デルタ土着の農耕民の反発であり、漢統治前からベトナムにあったドンソン文化の漢文化への抵抗が背景にあったと考えられている[10]42年に後漢の将軍・馬援によって反乱は鎮圧され、馬援の元で紅河デルタと広西を結ぶ陸路、紅河雲南を結ぶ水路が建設された[10]。馬援の元で土着の貉将の土地は再編され、抵抗する貉将たちは中部ゲアンまで漢軍の追撃を受け、3,000-5,000人の貉兵が斬殺された[14]。徴姉妹の反乱の後に貉将制度は廃止され、交州に県制度が導入された[15]。貉将に代わって、遠征に随行した漢人や漢人を祖先に持つ人間が行政に携わるようになり、漢の直接支配が確立された[16]44年、反乱の平定を終えた馬援は漢に帰国した。

ベトナムの民衆は漢から課せられた重税と労役、同化政策に苦しめられたが、同時に漢から導入した農工業の技術により、産業はより発達した[17][18]
第二次北属期「en:Second Chinese domination of Vietnam」も参照

漢の支配下で中央から交州に派遣された刺史、太守の苛斂誅求に対してベトナム人は反乱を起こし、軍事拠点や皇帝の私有地を攻撃した[19]

159年161年に天竺国の使者が日南郡を訪問、166年には大秦国王安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使いを名乗る人物が南海の産物を携えて日南に来航した[20]。漢の政治勢力の拡大、南海の特産物の需要の高まりに伴い、ベトナム中部の在地勢力の独立の意識も強くなっていった[20]192年頃、日南で区連が王を称して自立し、林邑(後のチャンパ王国)が建国される[21]。漢代には最大でダナンまで支配が広がっていた可能性もあるが、林邑の建国後、中国の支配領域は北に後退していった[1]

184年にベトナムの民衆が刺史の周敞を殺害し、朝廷に周敞の暴政を訴え出る事件が起きる[22][23]。中央から新たな刺史として派遣された賈jは減税を実施し、賈jの次の刺史には交州出身者である李進が任命される[22]

紅河デルタ、広東で在地中国人の独立した政権を求める機運が高まる中、184年頃に賈jの推挙により交趾太守に任じられた士燮は、北ベトナムに事実上独立した政権を樹立する[20][24]。士燮は南海の特産品を独占し、真珠ヒスイ、ガラス玉、タイマイなどをに献上した[25]226年に士燮が没した後、呉は交趾を支配下に収める。呉は士燮の支配地を広州と交州に二分し、中国とベトナム、東南アジアと東アジアの行政的な境界が確立された[26]。士燮の死後に交州は衰退、戸数は減少し[27]、交州の中心地は??(英語版)(ルイラウ)から龍編に移った[28]

248年、九真で趙氏貞(チェウ・ティ・チン、趙嫗)が呉に対して反乱を起こし、反乱にはベトナム人と漢人の両方が参加していたが、数か月で鎮圧される[29]。趙氏貞の反乱は、貉将によるベトナム土着の封建支配者層による最後の反乱となった[19]

541年、南朝が任命した刺史蕭諮の圧政に対して李賁(リ・ボン)が反乱を起こし、蕭諮を広州に追放する。李賁は北ベトナムの混乱に乗じた林邑の侵攻を撃退し、544年に龍編を都に定めて皇帝を称した[22]前李朝。当時の国名としては万春、後に野能と称した)。梁から楊?、陳霸先らが討伐軍として派遣され[30]、李賁はゲリラ戦術で抵抗する[31]が、548年に李賁は没し、その配下の将軍が後継者の地位を巡って互いに争った[31]。趙光復(中国語版)(チェウ・クアン・フク)、李仏子(中国語版)(リ・ファト・トゥー)らが王を名乗って南朝に抵抗するが、603年に隋によって反乱は鎮圧される。
第三次北属期5世紀のインドシナ半島「en:Third Chinese domination of Vietnam」も参照

隋の下で北ベトナムの行政区画の再編が実施され、従前の交趾の都城である龍編に代わり、東南アジアと中国両方と水路で結ばれている宋平(英語版)(トンピン、現在のハノイ)が新たな都城に定められた[32]604年に交州総管府が設置、679年に海上交易の拠点である交州の振興のため[33]によって安南都護府が設置された。唐の支配下では、安南都護府は南海の特産品を中国にもたらす拠点として機能する[32]

687年に都護府が実施した税金の増額に対し、李嗣先(中国語版)(リー・トゥ・ティエン)と丁建(ベトナム語版)(ディン・キエン)らが反乱を指導し、都護の劉延祐を殺害した[34]722年梅叔鸞(マイ・トゥック・ロアン)が驩州(現在のゲアン省)で反乱を起こし、梅黒帝を自称した。チャンパ、クメールの支援を受けた梅叔鸞の反乱は大規模なものになる[34]が、同年に反乱は鎮圧される[35]8世紀半ばから都護府はシャイレーンドラ、チャンパの襲撃を受けて軍備が増強され[36]、軍備の増強に関わる負担は現地の人間に重くのしかかった[37]

766年に馮興(中国語版)(フゥン・フン)と馮駭(フゥン・ハイ)の兄弟が反乱を起こし、羅城に入城した馮興は都君(ドクァン)を自称した。790年に馮興が没した後、その長子である馮安(中国語版)(フゥン・アン)が跡を継ぐが、馮安は唐の説得を受けて羅城を明け渡した[38]

846年に雲南の南詔が安南に進出し、862年に都護府は南詔の占領下に入る。865年に安南都護計略使・高駢(カオ・ビエン)による安南奪回が開始され、翌866年に交趾の大羅城が唐の支配下に戻る。高駢は大羅の再建にあたって城壁を強化し、城壁が取り囲む範囲は後代のハノイの中心地域とほぼ一致する[39]。高駢の統治下で安南の民衆は唐に恭順し、高駢は9年の任期を終えて帰国した[40]

880年節度使の曽袞が城府から追放される。

唐の没落は中国の支配が終結する転機となる[41]

906年にこれまで安南に派遣された中国人に代わり、在地の土豪である曲承裕(クック・トゥア・ズー)が初めて節度使となった[42]。唐に曲氏を抑える力は既に無く、曲氏の政権はベトナムに独自の行政区画を制定し、戸籍を作成する[43]。曲氏は政権を安定させるにあたって唐の制度の踏襲を志向し、907年の唐滅亡後に成立した後梁に使者を送り、節度使を名乗る許可を得た[44]


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