北原白秋
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この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水、牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれた。1905年(明治38年)には『全都覚醒賦』が『早稲田学報』懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになる。この頃に少年時代に南関の家で本を読み、白秋に本の大切さを教えた叔父が亡くなる。
『桐の花』まで

1906年(明治39年)、新詩社に参加。与謝野鉄幹与謝野晶子木下杢太郎石川啄木らと知り合う。『明星』で発表した詩は、上田敏蒲原有明薄田泣菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友が更に広がる。また、この頃より象徴派に興味を持つ。1907年(明治40年)、鉄幹らと九州に遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味に目覚める。また森?外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉アララギ派歌人とも面識を得るようになった。

1908年(明治41年)、『謀叛』を発表し、世評高くなる。またこの年、新詩社を脱退した。木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加。この会には吉井勇高村光太郎らも加わり、象徴主義耽美主義的詩風を志向する文学運動の拠点になった。1909年(明治42年)、『スバル』創刊に参加。木下らと詩誌『屋上庭園』創刊。また処女詩集『邪宗門』上梓。官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるも、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされた。

1910年(明治43年)、『屋上庭園』2号に掲載した白秋の詩『おかる勘平』が風俗紊乱にあたるとされ発禁処分を受け、同誌は年内に廃刊した。またこの年、三重県名張町の医師の娘であった松下俊子の隣家(東京原宿)に転居。

1911年(明治44年)、第二詩集『思ひ出』刊行。故郷柳川と破産した実家に捧げられた懐旧の情が高く評価され、文名を一躍高めた。また同年には文芸誌『朱欒(ざんぼあ)』[1] を創刊。

1912年(明治45年 / 大正元年)には母と弟妹を東京に呼び寄せ、年末には一人故郷に残っていた父も上京する。白秋は隣家に住んでいた松下俊子と恋に落ちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監拘置された。弟らの尽力により2週間後に釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられたが、人気詩人白秋の名声は不祥事によって地に堕ちた。この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。この頃に、穂積忠の師匠となった[2]

1913年(大正2年)、初めての歌集桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行。特に『桐の花』で明星派の柔らかな抒情をよく咀嚼した歌風を見せ、これによって白秋は歌壇でも独特の位置を占めるようになる。

同年1月、俊子との問題で自殺すら考えるほど傷心の白秋は東京から船で三浦半島南西の三浦三崎神奈川県)に渡って十日余り過ごし、一度帰京した後、5月に三崎へ移り住んだ[3]。同年春に俊子と結婚。父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引き揚げる。『城ヶ島の雨』はこの頃の作品であるという。『城ヶ島の雨』は梁田貞曲を付け奥田良三が歌ってヒットし、行楽地としての城ヶ島の名を高め、城ヶ島には白秋記念館がある[3]

また同年に『朱欒』を廃刊[1]、発行期間は短かったが萩原朔太郎室生犀星が詩壇に登場する足がかりとなった[1]。同年、長野県佐久のホテルに逗留して執筆活動を行う[4]
『落葉松』まで

1914年(大正3年)、肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するもほどなく帰京。父母と俊子との折り合いが悪く、遂に離婚に至る。『真珠抄』『白金之独楽』刊行。また『地上巡礼』創刊。1915年(大正4年)、前橋萩原朔太郎を訪う。弟と阿蘭陀書房を創立し、雑誌『ARS』を創刊。さらに詩集『わすれなぐさ』と歌集『雲母集』を刊行。1916年(大正5年)、詩人の江口章子と結婚し、東京小岩町の紫烟草舎に転居。筆勢いよいよ盛んにして『白秋小品』を刊行する。1917年(大正6年)、阿蘭陀書房を手放し、再び弟と出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病んだ。

1918年(大正7年)、小田原に転居。鈴木三重吉の勧めにより『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当。優れた童謡作品を次々と発表し、作品に新生面を拓くのみならず、以降の口語的、歌謡的な詩風に強い影響を与えることになる。1919年(大正8年)、処女小説『葛飾文章』『金魚』発表。生活もようやく落ち着き、歌謡集『白秋小唄集』、童謡集『とんぼの眼玉』刊行。それまで一室を借りていた伝肇寺(でんじょうじ)の境内に住宅を建て「木菟(みみずく)の家」と名付ける。1920年(大正9年)、『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行開始。伝肇寺境内の住宅の隣に山荘を新築した際の祝宴は、小田原の芸者総出という派手なものであった。それに白秋の生活を金銭的に支えて来た弟らが反発し、章子を非難する。着物の殆どを質入れしたと言う章子は非難されるいわれもなく反発。その晩、章子は行方を晦(くら)まし、白秋が不貞を疑い章子と離婚。

1921年(大正10年)、佐藤菊子(国柱会会員、田中智學の元で仕事)と結婚。信州滞在中に想を得て『落葉松』を発表する。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。1922年(大正11年)、長男・隆太郎誕生。文化学院で講師となる。また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。歌謡集『日本の笛』などを刊行。1923年(大正12年)、三崎、信州、千葉塩原温泉を歴訪。詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災によりアルス社が罹災し、山荘も半壊する。
晩年故郷の柳川市に建立された詩碑「帰去来」
(2003年10月21日撮影)

音楽・音声外部リンク
全曲を試聴
『萬歳ヒットラー・ユーゲント』
北原白秋(作詞)、高階哲夫(作編曲)、藤原義江(歌)、日本ビクター管弦楽団
国立国会図書館デジタルコレクション

1924年(大正13年)1月5日、田中智學の招きで両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに静岡県三保の田中智學の最勝閣へ旅行し、龍華寺、羽衣の松などを観光、長歌1首、短歌173首を作る。同年短歌雑誌『日光』を創刊。反アララギ派の歌人が大同団結し、象徴主義的歌風を目指す。1925年(大正14年)、長女・篁子(ドイツ語学者、岩崎英二郎夫人)誕生。樺太北海道に遊ぶ。童謡集『子供の村』など刊行。1926年(大正15年 / 昭和元年)、東京谷中に転居。詩誌『近代風景』創刊。童謡集『からたちの花』『象の子』などを刊行。1927年(昭和2年)、出版内容の競合からアルス社と興文社に悶着が起こり、興文社側の菊池寛と対立。詩論集『芸術の円光』刊行。1928年(昭和3年)、東京世田谷区に転居。『大阪朝日新聞』(現在の『朝日新聞』)の企画により、福岡県大刀洗町から大阪まで飛行機に搭乗する。1929年(昭和4年)、『海豹と雲』など刊行。また『白秋全集』の刊行開始。川田順斎藤茂吉前田夕暮松村英一とともに日本歌人協会(東京市本郷区駒込)の常務となった[5]

1930年(昭和5年)、南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途に奈良へ立寄り、頻りに家族旅行に出かける。


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