子供の頃から親に「将来は看護師か教育者か警察官を選びなさい」と言われて育てられた[4]。年子の妹がおり、当時は親戚が集まると、妹は陽気で皆の前で歌ったり踊ったりしたの対し、本人は親の後ろに隠れるとても内気な性格だった[4]。思春期を迎えた頃、毎日決まった時間に起きて同じ時間に通学する生活に疑問を感じ始めた。変化を求めて雑誌の読者コーナーに自分の写真を送ったところ、月刊誌『mcシスター』に1ページ分を使って大きく掲載された[4]。
当時新参のモデル事務所だったオスカープロモーションから声がかかり、3か月ほどモデルのレッスンを受けた[4]。ある日、友達とたまたま遊びに行った男子校の学園祭で行われたコンテスト[注 3]に誘われるまま参加[4]。同コンテストでミス・ヤングジャンプに選ばれたのを機に、モデルの仕事や色々なオーディションの話が舞い込んだ[4]。 モデル活動当時は私立の女子高に通っており、事務所に「学校が厳しいので水着の仕事はやれない」と伝えていたため、水着撮影をNGにしていた[3][4]。ある日銀行のキャンペーンモデルに選ばれ、ハワイでのポスター撮影のため空港に訪れた。するとマネジャーから突然、「今回は水着の仕事だから」と告げられて断りきれず撮影した[3]。帰国後、等身大の水着ポスターが銀行に貼られると学校に知られて“学校か、仕事か”と選択を迫られた[4]。これにより高校3年生の時に公立の定時制高校に転校し[4]、以後水着の仕事もするようになった[3]。 アイドル歌手時代(1982年頃)は事務所の管理が厳しく、性別関係なく他のアイドルなどと極力接点を持たないよう北原のマネジャーにガードされていた[注 4]。また、同期アイドルたちより2学年ほど年上だったため、彼女たちと距離を感じていたという[3]。 当時は歌番組に力を持つ他のアイドル事務所の歌手で出演枠が埋まり、新参のモデル事務所だったオスカーは北原の売出しに苦労したという[4]。このためレコードを出すたびに北原は週末に全国のレコード店をコツコツ回ってサイン会を開いたり、駅の地下街やデパートの屋上などの簡易ステージで歌った[4]。デビューから3年ほどアイドルとして活動したが歌手を辞めることを決意し、自らレコード会社に挨拶に出向いて歌手活動を終えた[4]。 遡って1983年の月曜ワイド劇場枠の2時間ドラマ『女子少年院』(テレビ朝日系)に不良役で出演。乱闘シーンでは先頭を切って喧嘩するなどそれまでより懸命に役作りをしたことから、本作は女優転向のきっかけとなった[注 5]。 ある雨の日、車を運転中に体にマヒのある男性がタクシーを探しているのを見かけて彼の前で停車した[3]。勇気を出して「よろしかったらどうぞ乗ってください」と声をかけて彼の自宅近くまで送った[注 6]。このとき、「困っている人がいたら自然と力になれる自分になりたい。見て見ぬふりはしたくない」と思い始めた[3]。 その後40代のころ実際に行動へ移すことを決意し、41歳ごろからホームヘルパー2級、介護福祉士、ケアマネジャーの資格をそれぞれ取得するようになった[3]。その後在宅診療にも同行したが、医師と看護師の会話は専門性が高すぎて理解できず、もどかしく思うと同時に介護医療分野にもっと関わりたいと思うようになった[3]。北原の悩む様子に気づいた医師から看護学校で学ぶことを勧められたことが、その後准看護師の資格取得につながった[3]。
芸能界の新人時代
介護職を始めたきっかけ
出演
テレビドラマ
先生は一年生 (1982年、日本テレビ)<デビュー作>