北原佐和子
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さらに、医師や看護師が話すことを理解できるようになりたいとして准看護師を目指して事業所での仕事を一時中断し准看護学校に通い[13]、准看護師試験に合格して2020年3月に卒業[14]、翌4月より看護師として勤務を開始した[15]。2023年現在は、都内の認知症専門病院で週4日ほど勤務している[3]

2020年12月、自身のYouTubeで「さわちゃんねる【北原佐和子】」を開設した[16]
人物

趣味(デビュー当時):高校野球の観戦
[注 1]

趣味:乗馬[3]、陶芸、登山、映画鑑賞、ドライブ

特技:日舞三味線[3]陶芸ソフトボール

上記の日舞、三味線、乗馬を始めたきっかけは、20代半ばのころに芸能活動をするうえで将来に不安を感じ、「空いた時間を使って何か習ってみよう」と思ったことから[3]

右目尻の下に泣きぼくろがあり、デビュー当時からのチャームポイントになっている。

ソロ歌手として当初、1982年3月25日にデビューする予定だったが、北原の誕生日である3月19日に前倒しされた[4]

デビューわずか1ヶ月当時、CMオファー26社という驚異的な数字を記録[4]

レコードデビュー時にはレコード会社19社がオファーを出し、1億円という高額契約になった[18]

東京赤坂の日枝神社を信仰していて、たびたび参拝に訪れている。

24歳の時、友達の紹介で知り合った男性と結婚したが、30歳の時に離婚[4]。現在は独身である。

舞台『水戸黄門』で初めて舞台作品を経験したが、これがきっかけで胃潰瘍になり、40代前半まで症状が続いたという[3]

27歳の時、自らの意志でヌード写真集を発表している[注 2]

エピソード
子供時代

子供の頃から親に「将来は看護師か教育者か警察官を選びなさい」と言われて育てられた[4]。年子の妹がおり、当時は親戚が集まると、妹は陽気で皆の前で歌ったり踊ったりしたの対し、本人は親の後ろに隠れるとても内気な性格だった[4]。思春期を迎えた頃、毎日決まった時間に起きて同じ時間に通学する生活に疑問を感じ始めた。変化を求めて雑誌の読者コーナーに自分の写真を送ったところ、月刊誌『mcシスター』に1ページ分を使って大きく掲載された[4]

当時新参のモデル事務所だったオスカープロモーションから声がかかり、3か月ほどモデルのレッスンを受けた[4]。ある日、友達とたまたま遊びに行った男子校の学園祭で行われたコンテスト[注 3]に誘われるまま参加[4]。同コンテストでミス・ヤングジャンプに選ばれたのを機に、モデルの仕事や色々なオーディションの話が舞い込んだ[4]
芸能界の新人時代

モデル活動当時は私立の女子高に通っており、事務所に「学校が厳しいので水着の仕事はやれない」と伝えていたため、水着撮影をNGにしていた[3][4]。ある日銀行のキャンペーンモデルに選ばれ、ハワイでのポスター撮影のため空港に訪れた。するとマネジャーから突然、「今回は水着の仕事だから」と告げられて断りきれず撮影した[3]。帰国後、等身大の水着ポスターが銀行に貼られると学校に知られて“学校か、仕事か”と選択を迫られた[4]。これにより高校3年生の時に公立の定時制高校に転校し[4]、以後水着の仕事もするようになった[3]

アイドル歌手時代(1982年頃)は事務所の管理が厳しく、性別関係なく他のアイドルなどと極力接点を持たないよう北原のマネジャーにガードされていた[注 4]。また、同期アイドルたちより2学年ほど年上だったため、彼女たちと距離を感じていたという[3]

当時は歌番組に力を持つ他のアイドル事務所の歌手で出演枠が埋まり、新参のモデル事務所だったオスカーは北原の売出しに苦労したという[4]。このためレコードを出すたびに北原は週末に全国のレコード店をコツコツ回ってサイン会を開いたり、駅の地下街やデパートの屋上などの簡易ステージで歌った[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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