北京
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満洲語ではベギン(満洲文字:.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}?????、メレンドルフ転写: beging)またはゲムン・ヘチェン(?????
?????、転写:gemun hecen、「京城」の意)、ギン・ヘチェン(???
?????、転写:ging hecen)[9]と呼ばれていた。

江戸時代の書物(江原某『長崎虫眼鏡』など)では、「北京」のふりがなは「ほつきん(発音はホッキン)」となっている。幸田露伴の小説「運命」では読みを漢音で「ほくけい」としている。諸橋轍次大漢和辞典」では「ほくけい」「ぺきん」の二つの読みを併記している。「ほっけい」とも言う。
歴史天寧寺塔は代に建てられ、末の戦火による天寧寺焼失を免れた。

中国地名の変遷
建置古代
使用状況北京市
(薊(中国語版))
春秋(薊(中国語版)→
戦国
薊県
広陽郡
前漢燕国
広陽郡
燕国
広陽郡
広陽国
後漢上谷郡
広陽郡
三国燕国
西晋燕国
東晋十六国燕郡
南北朝燕郡
幽州
?郡
幽州
幽都県
幽州
五代幽州
北宋/薊北県
幽都府
南京
燕京
析津府
析津県
宛平県
南宋/中都
大興府
大興県
大都
大都路
北平府
順天府
北京
順天府
北京
中華民国順天府
京兆地方
京都市
京都特別市
北平特別市
北平市
現代北京市
詳細は「北京の歴史」を参照

紀元前11世紀頃から紀元前222年春秋戦国時代中期に現在の北京には「薊(中国語版)(けい)」という諸侯国と称された。が滅ぼし薊へ遷都した。の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。燕は劇辛楽毅などの名将によって斉を攻め、70余城を取った。怒れる王翦を率い[10][11]、首都の薊は紀元前226年に秦によって陥落した[12][13][14][15][16][17]。秦には北平(ほくへい、ペイピン B?iping)と称されるが、満洲開発が進み、高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった。4世紀には高句麗が幽州地域を征服し、北京一帯を支配した[18]。北京に隣接する河北?郡(たくぐん)は三国志の英雄劉備の故郷で知られるとともに煬帝が築いた大運河の北の起点とされている。

五代の騒乱期、内モンゴルから南下してきたは、後晋に対し軍事支援を行った代償として北京地方を含む燕雲十六州を割譲された。遼はこの都市を副都の一つ南京(別名:燕京)と定めた。

その後が遼を滅ぼして支配権を獲得したが、1153年に第4代皇帝海陵王会寧から遷都を行って中都とした。皇統の和議(側では紹興の和議)によって、金の河北支配が確定すると、それまでの会寧では北に偏りすぎていることが大きな要因とみられ、また合わせて中国式の官制改革なども行われた。海陵王は政変で滅ぼされるが、モンゴル帝国の侵攻まで都城が存在した[19]

モンゴル帝国のハーン位を巡る争いに勝利して、王朝を事実上創建したフビライ・ハンは、1264年に燕京を中都とし、1270年にはこれを大都と改めて、カラコルムに代わってモンゴル帝国の中心とした。フビライは従来の中都の北東に新たな都城(カンバリク)を築くことにし、1266年から始まった工事は1274年に宮殿を、1276年には城壁を完成させた。更に1293年には通恵河を開通させて大都と大運河をつなげた[20]。ただし、元王朝はモンゴル帝国の要素を引き継いだ国家であり、元の皇帝(ハーン)は夏の間はモンゴル高原に近い開平(上都)に、冬の間は大都に居住する「両都巡行制」を採用した[21]

朱元璋(洪武帝)が元朝を北方に駆逐しが成立すると、名称は北平に戻され、都城は南京に定められた[注釈 1]。しかし、燕王に封じられ北平を拠点とした朱棣(後の永楽帝)は、1402年建文帝に対し軍事攻撃を行い政権を奪取(靖難の変)。皇帝に即位した永楽帝は1403年に地名を北京に改めて南京の応天府に対して順天府と命名、遷都を前提とした大規模な工事を開始した。1406年から準備が始まった宮殿の工事の準備は物資搬送のための大運河の整備と平行して行われ、実際の宮殿の工事が行われたのは1417年に入ってからであった。しかし、朝廷内部には洪武帝の祖法を覆すこの方針に反対論が根強く、永楽帝も3度にわたる北京巡行を経て、1421年朝賀に合わせて遷都を実行した。しかし、反対論が納まること無く、永楽帝の後を継いだ洪熙帝1425年に南京への還都を宣言して、北京はそれまでの「行在」とされた。しかし、洪熙帝が間もなく崩御したことで還都計画は中断した。ただし、還都の中止が正式に発表されたのは正統帝の時代に入った1441年のことである[23]。遷都の理由としては燕王としての永楽帝の根拠地であると共に、@靖難の変で顕在化した政治的対立や経済的格差の解消を図る「南北統一」の実現のために重視されるべき華北地域の中心であったこと、A元(モンゴル帝国)の登場によって広がった新たな中華世界の主として迫られた「華夷一統」を実現させるために農耕地域と遊牧・狩猟地域の境界線上にある北京が新しい都城の所在地として相応しかったとする政治的・経済的目的が主であったと考えられている。なお、北京遷都の一因としてモンゴル帝国に対する備えとする軍事的目的も指摘されているが、永楽帝が即位した直後の北方情勢は深刻では無く、むしろ遷都の正当化のための後付けの理由だったものが、状況の変化に伴って皇帝親征が必要ほどになる深刻なものとなった可能性も指摘されている[24]。明王朝による「華夷一統」の実現の試みは冊封体制の再興という形で実現され、北京は多くの朝貢使節団が来訪するようになった[25]

1644年李自成の反乱軍が明を滅ぼすと、その間隙を突いて満洲からが南下をして北京を占領した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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