この議定書は、列強国協議のもとで清朝に拒否を一切認めない形で認められ、首都北京を占領された清朝(西太后・李鴻章)はこれを呑まざるを得なかった。そのうちでも公使館周辺区域の警察権を列強国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点に列強国の駐兵権を認めるといったものは、清朝領域内でその国権が否定され、列強国が統治する地域が生ずるものに他ならなかった。この状況は第二次世界大戦の終了まで事実上維持された。
義和団の乱の再発を列強国が恐れたための内容であるともいえる。清朝国内での警察権・駐兵権にとどまらず、排外団体結成禁止、地方官吏への排外団体取締りの厳命、それに背いた場合の罰則なども盛り込まれている。また、外国人殺害のあった市府の科挙受験禁止などは中国ならではの厳しい見せしめ政策であったといえよう。 北京議定書で清朝に定められた賠償金4億5000万両(利払いを含めると8億5000万両になる)という額は、年間予算1億両足らずであった当時の清朝には、まさに天文学的な要求であった。さらにその賠償金の支払い源も海関税など確実な収入を得られるものを差し押さえる形で規定されていた。 その後、清朝はこの支払いを履行したが、莫大な拠出はその後の改革(光緒新政)の施策を限定せざるを得ないこととなり、かつ侵略を防ぐためとして投資対象が軍備優先となったために、北洋軍の総帥である袁世凱の権勢をさらに増大させることとなった。また、改革遂行のためにさらに列強国や外国資本銀行の借款に頼り、外国への依存を更に強めることとなった。民衆へは税の増額という形で負担がのしかかり、さらに困窮にあえぐこととなり、清朝への不満が高まった。賠償金は1912年に清朝が滅亡した後も、清朝を引き継いだ国家とみなされた中華民国にそのまま負わされ、中央政権が軟弱な基盤しか持ちえなかった理由の一つとなった。 列強国も清朝や中華民国が賠償によって苦しむ姿を見て、国際社会の批判や自国の中国権益減少を恐れ、第一次世界大戦前後から賠償金の緩和をたびたび行った。特に20世紀初頭に中国接近の度を強めていたアメリカは、1908年に条件付きの減額に応じ、その減額分を米国に向けた留学生援助として、北京での留学予備校の設置と経営に充当させた。これが現在も北京にある清華大学である。 結局1938年までに6億5千万両が列強国に支払われ、ようやく賠償は終了した。
賠償金4億5000万両のその後
脚注[脚注の使い方]^ ⇒明治・大正期における在北京日本公使館の建築 : 眞水英夫設計四代目北京公使館を中心として川原聡史、日本建築学会関東支部研究報告集 85(II), 609-612, 2015-03-01一般社団法人日本建築学会
関連項目
日清両国間追加通商航海条約
外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに北京議定書の原文があります。
⇒英文による北京議定書の内容(John Jay Collegeサイト内)
公使館区域
『北京議定書
表
話
編
歴
日本が締結した主な国際条約・協定・合意
開国の時代
江戸時代末期
(1854年?1867年)
日米和親条約 (1854年)
下田追加条約 (1854年)
日英和親条約 (1854年)
日露和親条約 (1855年)
日蘭和親条約 (1856年)
日米追加条約 (1857年)
日蘭追加条約 (1857年)
日露追加条約 (1857年)
安政五カ国条約 (日米・日蘭・日露・日英・日仏) (1858年)
日葡修好通商条約 (1860年)
日普修好通商条約 (1861年)
ロンドン覚書 (1862年)
パリ約定 (1864年)
日白修好通商条約 (1866年)
日伊修好通商条約 (1866年)
明治維新の時代
明治前期
(1868年?1893年)
日西修好通商航海条約 (1868年)
日墺修好通商航海条約 (1869年)
日清修好条規 (1871年)
日布修好通商条約 (1871年)
日秘修好通商航海条約 (1873年)
台湾事件に関する互換条款並互換憑単 (1874年)
樺太-千島交換条約 (1875年)
メートル条約 (1875年)
日朝修好条規 (1876年)
万国郵便条約 (1877年)
済物浦条約 (1882年)
漢城条約 (1885年)
天津条約 (1885年)
日布渡航条約 (1886年)
日暹修好通商に関する宣言 (1887年)
日墨修好通商条約 (1888年)
日清・日露戦争の時代
明治後期
(1894年?1905年)
日英通商航海条約 (1894年)
日朝盟約 (1894年)
日米通商航海条約(陸奥条約) (1894年)
日伊通商航海条約 (1894年)
日清講和条約(下関条約) (1895年)
日伯修好通商航海条約 (1895年)
遼東還付条約 (1895年)
日独通商航海条約 (1896年)
小村-ウェーバー協定 (1896年)
山県-ロバノフ協定 (1896年)
日白公開通称条約 (1896年)
日清通商航海条約 (1896年)