中国の共通語である普通話では、 B?ij?ng[ヘルプ/ファイル] と発音し、カタカナに転記すると「ペイチン」。英語では Beijing と表記し、 [be??d???] ( 音声ファイル)「ベイジン」と発音している[4]。国連や北京市の公式サイトにおいても、Beijing を英語の名称として採用している[5][6][7]。ただ以前は英語圏でもPeking「ピーキン」という表記を多用していたこともあり、北京大学を英語で Peking University と表記するなど[8]、その名残を残している。
満洲語ではベギン(満洲文字:.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}?????、メレンドルフ転写: beging)またはゲムン・ヘチェン(?????
?????、転写:gemun hecen、「京城」の意)、ギン・ヘチェン(???
?????、転写:ging hecen)[9]と呼ばれていた。
江戸時代の書物(江原某『長崎虫眼鏡』など)では、「北京」のふりがなは「ほつきん(発音はホッキン)」となっている。幸田露伴の小説「運命」では読みを漢音で「ほくけい」としている。諸橋轍次「大漢和辞典」では「ほくけい」「ぺきん」の二つの読みを併記している。「ほっけい」とも言う。
歴史天寧寺塔は遼代に建てられ、元末の戦火による天寧寺焼失を免れた。
中国地名の変遷
建置古代
使用状況北京市
周薊(薊(中国語版))
春秋薊(薊(中国語版)→燕)
戦国薊(燕)
秦薊県
広陽郡
前漢燕国
広陽郡
燕国
広陽郡
広陽国
後漢上谷郡
広陽郡
三国燕国
西晋燕国
東晋十六国燕郡
南北朝燕郡
隋幽州
?郡
唐幽州
幽都県
幽州
五代幽州
北宋/遼薊北県
幽都府
南京
燕京
析津府
析津県
宛平県
南宋/金中都
大興府
大興県
元大都
大都路
明北平府
順天府
北京
清順天府
北京
中華民国順天府
京兆地方
京都市
京都特別市
北平特別市
北平市
現代北京市
詳細は「北京の歴史」を参照
紀元前11世紀頃から紀元前222年、春秋戦国時代中期に現在の北京には「薊(中国語版)(けい)」という諸侯国と称された。燕が滅ぼし薊へ遷都した。周の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。燕は劇辛や楽毅などの名将によって斉を攻め、70余城を取った。怒れる秦は王翦を率い[10][11]、首都の薊は紀元前226年に秦によって陥落した[12][13][14][15][16][17]。秦漢には北平(ほくへい、ペイピン B?iping)と称されるが、満洲開発が進み、高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった。4世紀には高句麗が幽州地域を征服し、北京一帯を支配した[18]。北京に隣接する河北?郡(たくぐん)は三国志の英雄劉備の故郷で知られるとともに隋の煬帝が築いた大運河の北の起点とされている。
唐末五代の騒乱期、内モンゴルから南下してきた遼は、後晋に対し軍事支援を行った代償として北京地方を含む燕雲十六州を割譲された。遼はこの都市を副都の一つ南京(別名:燕京)と定めた。
その後金が遼を滅ぼして支配権を獲得したが、1153年に第4代皇帝海陵王が会寧から遷都を行って中都とした。皇統の和議(宋側では紹興の和議)によって、金の河北支配が確定すると、それまでの会寧では北に偏りすぎていることが大きな要因とみられ、また合わせて中国式の官制改革なども行われた。海陵王は政変で滅ぼされるが、モンゴル帝国の侵攻まで都城が存在した[19]。
モンゴル帝国のハーン位を巡る争いに勝利して、元王朝を事実上創建したフビライ・ハンは、1264年に燕京を中都とし、1270年にはこれを大都と改めて、カラコルムに代わってモンゴル帝国の中心とした。フビライは従来の中都の北東に新たな都城(カンバリク)を築くことにし、1266年から始まった工事は1274年に宮殿を、1276年には城壁を完成させた。更に1293年には通恵河を開通させて大都と大運河をつなげた[20]。ただし、元王朝はモンゴル帝国の要素を引き継いだ国家であり、元の皇帝(ハーン)は夏の間はモンゴル高原に近い開平(上都)に、冬の間は大都に居住する「両都巡行制」を採用した[21]。
朱元璋(洪武帝)が元朝を北方に駆逐し明が成立すると、名称は北平に戻され、都城は南京に定められた[注釈 1]。しかし、燕王に封じられ北平を拠点とした朱棣(後の永楽帝)は、1402年に建文帝に対し軍事攻撃を行い政権を奪取(靖難の変)。