この地震では、2つの地震断層が地表に現れた。京丹後市網野町浅茂川から同市大宮町三重(みえ)地区に至る左横ずれ主体の「郷村断層」(長さ約18km)と、野田川町岩屋地区から宮津市府中地区までの右横ずれ主体の「山田断層」(長さ約7km)である[4]。郷村断層では、西側が最大80cm隆起し、南へ270cm移動した。もう1本の山田断層は、北側が最大70cm隆起し、東へ80cm移動した。
なお、郷村断層は1929年12月17日、国の天然記念物に指定され3か所で保存されており、現在でも見ることができる。 直前に1923年大正関東地震(関東大震災)や1925年北但馬地震の発生があったことから、地震や断層への関心が集まり様々な機関の研究者が多方面から調査を行った[4]。更に後年(1985年)にはトレンチ調査も行われた[4][16]。P波初動の分布や地殻変動がはっきりと観測され、この地震を契機に地震学が大きく進展した。 被災者は厳寒の中雪の降る屋外に投げ出され、新聞社など多くのマスコミが被災者救援のキャンペーンや募金活動などを行った。 大阪梅田の阪急百貨店では、この地震による食い逃げ(飲食代の未収)が莫大な額に達したため、1930年(昭和5年)より日本初の「食券制」を取り入れている[17]。 この地震の被害を後世に伝えるため、峰山町(現京丹後市)に丹後震災記念館が建てられた。網野町では災害復旧の中で区画整理事業が行なわれたが[18]、これは全国でも初めてだといわれている[19]。
意義
脚注[脚注の使い方]^ a b c “震度データベース検索
^ “M 7.0 - western Honshu, Japan”. アメリカ地質調査所 (2015年5月13日). 2018年6月27日閲覧。
^ 羽鳥徳太郎 (2010). ⇒“歴史津波からみた若狭湾岸の津波の挙動”. 歴史地震 25: 75-80. ⇒http://www.histeq.jp/kaishi_25/HE25_075_080_Hatori.pdf 2018年6月27日閲覧。.
^ a b c d 岡田篤正, 松田時彦、「1927年北丹後地震の地震断層」 『活断層研究』 1997年 1997巻 16号 p.95-135, doi:10.11462/afr1985.1997.16_95
^ 奥丹後地方史研究会編集委員会『写真が語る明治・大正・昭和の丹後』文理閣、1991年、56頁
^ 丹後ちりめん子ども風土記編集委員会『丹後ちりめん子ども風土記』文理閣、1977年、107頁。
^ 大邑潤三(2016):1927年北丹後地震における建物倒壊被害と地形の関係 (PDF) , 自然災害科学 J.JSNDS 35-2 121-140.
^ 鈴木猛康, ⇒全壊率100%、内陸活断層型の破壊力 (PDF) , 事例に学ぶ自治体防災
^ 峰山、網野、加悦、岩滝など壊滅『大阪毎日新聞』昭和2年3月8日号外(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p219 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 海水吹き出し洪水、大阪で液状化現象『大阪毎日新聞』昭和2年3月8日号外(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p220)
^ 第一震で全町倒壊した網野・峰山両町『大阪毎日新聞』昭和2年3月9日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p222)
^ 大邑潤三、「1927年北丹後地震における人的被害の分析」 『鷹陵史学』 41号 19-42 2015/09/30
^ 救護届かぬ峰山以北、被災地に水禍無情『中外商業新報』昭和2年3月11日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p223)