北マケドニア
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マケドニアでは議会の最大野党が合意を非難し[12]、またイヴァノフ大統領は承認を拒否する方針を表明した[14]。ギリシャでも議会の最大野党が合意に対する不支持を表明[15]、またアテネの国会前[16]、および署名式典が開かれた両国の国境に近いサラデス(英語版)の周辺[12]において、抗議デモに対し警察が催涙弾などで鎮圧にあたる事態となった。

マケドニアでの国民投票は同年9月30日に実施されたが、野党側がボイコットを呼び掛けたこともあり、投票率は約37%にとどまり成立条件の50%を下回ったため無効となった[17]。今回の投票結果が法的拘束力を持たないことから、ザエフ首相は引き続き改名の手続きを進め、野党が同意しなければ総選挙を早期に実施する意向を表明した[18]。議会の承認プロセスでは両国内で野党勢力の切り崩しなどが行われ、まず2019年1月11日にマケドニア議会が国名変更のために必要な憲法改正案を承認し[19]、同年1月25日にはギリシャ議会で改名合意が承認され、呼称問題はマケドニアの国名変更で決着した[20]。2月12日に改名が発効し、翌13日には国名変更を国際連合に通知した[21]
歴史詳細は「北マケドニアの歴史」を参照

古代のマケドニア地域には、古くから人が居住しており、イリュリア人トラキア人[注釈 1]などの部族が割拠していた。紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、現在の北マケドニア共和国に相当するマケドニア地域北部はマケドニア王国の支配下となっていった。マケドニア王国はアレクサンドロス3世(いわゆる「アレキサンダー大王」)の時代に、アジアエジプトに及ぶ最大版図となるが、その死後、国は分裂。紀元前2世紀には西から勢力を拡大したローマ帝国の支配下となっていった。紀元前146年、この地域は正式にローマ帝国のマケドニア属州の一部とされた。ローマ帝国が東西に分かれると、マケドニアは東ローマ帝国の一部となった[22]サムイルによってプレスパ湖に立てられた聖堂跡。ここにはサムイルの墓がある。

中世のマケドニア地域には、北から西ゴート族フン族アヴァールそしてスラヴ人などが侵入を繰り返した。7世紀初頭には、この地域の多くはスラヴ人の居住地域となっていた。スラヴ人たちは、それぞれ異なる時期に段階的にこの地域に入ってきた。スラヴ人の居住地域は、現ギリシャ領のテッサロニキなどを含む、マケドニア地域のほぼ全域に拡大していった[22]680年ごろ、クベル(英語版)に率いられたブルガール人の一派がマケドニアに流入した。

9世紀後半、テッサロニキ出身のキュリロスメトディオスの兄弟によってキリスト教聖書がスラヴ語に翻訳された。9世紀に北方から侵入して東ローマ帝国と衝突しながら勢力を拡大していった第一次ブルガリア帝国は、9世紀末のシメオン1世の時に最盛期を迎え、マケドニア地方もその版図に収められた。キュリロスとメトディオスの弟子たちにはスラヴ語の聖書を用い、ブルガリア帝国の支援の下、スラヴ人たちにキリスト教を布教していった。シメオンの死後、ブルガリア帝国は次第に衰退し、マケドニア地方は再び東ローマ帝国の支配下となった[22]

978年、マケドニア出身のサムイルはこの地で東ローマに対する反乱を起こした。サムイルはこの地方のオフリドを首都としてブルガリア帝国を再建し、彼の下で再度ブルガリア帝国は急速な拡大を迎えた。しかし、1014年にサムイルが死去するとブルガリア帝国はその力を失い、1018年には完全に滅亡し、再び東ローマの支配下に帰した[22]。その後、この地方は北で起こったセルビア人の地方国家の乱立やその他の地方領主の群雄割拠の状態を経て、12世紀末ごろには新興勢力の第二次ブルガリア帝国セルビア王国、そしてラテン帝国ニカイア帝国といった十字軍国家の間で勢力争いが繰り広げられる[22]

十字軍を退けて復活した東ローマ帝国やブルガリア帝国は、東から伸張してきたオスマン帝国によって国力を落とた。その間隙を衝いてセルビア王国はステファン・ウロシュ3世デチャンスキの下、大幅な領土拡大に成功し、マケドニア地方全域を支配下に収めた。その息子ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの下でセルビアは絶頂を迎え、ウロシュ4世はスコピエを首都として同地にて1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」として戴冠を受け皇帝に即位する。しかし、ウロシュ4世の死後はセルビアは地方領主の割拠する状態となり、1371年マリツァ川の戦いなどを経てマケドニアはオスマン帝国の支配下となった[22]

オスマン帝国統治時代には、支配下の人々の分類を言語や民族ではなく、宗教の所属に置いていた。これらの人々の帰属意識もキリスト教の正教会信仰に置かれ、マケドニア人という民族意識も民族名称も存在しなかった。教会の管轄はコンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)であった。長いオスマン帝国の支配下で多様な民族の混在化が進み、マケドニア地域にはスラヴ人アルーマニア人トルコ人アルバニア人ギリシャ人ロマユダヤ人などが居住していた。この地域のスラヴ人の話す言語はブルガリア語に近く、マケドニア地方のスラヴ人はブルガリア人とみなされていた。

19世紀セルビア王国ギリシャ王国がオスマン帝国から独立を果たすと、この地域の非トルコ人、特に正教徒の間ではオスマン帝国からの分離の動きが加速した。1878年ブルガリア公国が成立すると、一度はマケドニア全域がブルガリア公国の領土とされたものの、ブルガリアの独立を支援したロシア帝国の影響力拡大を恐れた列強諸国によってブルガリアの領土は3分割され、マケドニア地方はオスマン帝国領に復した。マケドニアで最大の人口を持っていたスラヴ人の間では、マケドニアの分離とブルガリアへの併合を求める動きが強まり、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織などの反オスマン帝国組織が形成された。このころ、マケドニア地域のスラヴ人の多くはブルガリア人を自認していたが、ブルガリア人とは異なる独自のマケドニア人としての民族自認も芽生え始めていた。

内部マケドニア革命組織ゴツェ・デルチェフらの指導の下で武装蜂起を進め、1903年8月にイリンデン蜂起(英語版)を起こした(この年のグレゴリオ暦8月2日は、ユリウス暦では7月20日の聖エリヤの日であり、イリンデンとは聖エリヤの日を意味する)。イリンデン蜂起は失敗に終わったものの、この地域のスラヴ人による反オスマン帝国の闘争は続き、また、比較的オスマン帝国への親和性の高かったアルバニア人の間でもプリズレン連盟を中心にオスマン帝国からの自立を求める動きが高まった。


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