北バージニア軍
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1862年春、ジョージ・マクレラン少将率いる北軍ポトマック軍半島方面作戦が開始されると、ジョンストンはアメリカ連合国の首都であるバージニア州リッチモンド防衛のため、北バージニア軍を南方に移動させざるを得なくなった。ジョンストンは防衛戦術を取りながら北軍の侵攻を遅滞させたが、5月31日のセブンパインズの戦いで重傷を負った。
スミス臨時司令官

5月31日にジョンストンが負傷・入院し軍の指揮をとれなくなったため、予備部隊の指揮官であったグスタヴス・ウッドソン・スミス少将が臨時の軍司令官になった。しかしながら、翌日にデイヴィス大統領の命令で、ロバート・リー大将が軍司令官に就任した。
リー司令官時代ロバート・E・リー大将フレデリックスバーグの戦い時の北バージニア軍戦闘序列(1862年12月)荒野の戦い時の北バージニア軍戦闘序列(1864年5月5日-7日)

1862年6月1日、最も有名であり、かつ最後の軍司令官となったロバート・E・リー大将が負傷したジョンストンに代わって軍司令官を引き継いだ。最初の1年間、リーには2人の主要な部下がいた。右翼の指揮官であるジェイムズ・ロングストリート中将と左翼の指揮官であるストーンウォール・ジャクソン中将である。11月6日に、この2つの翼は第1軍団(ロングストリート)と第2軍団(ジャクソン)に名称が変更された。チャンセラーズヴィルの戦いでジャクソンが戦死した後の1863年5月30日、リーは北バージニア軍を3個軍団に再編した。ロングストリートの第1軍団、リチャード・イーウェル中将の第2軍団、A・P・ヒル中将の第3軍団である。1864年10月19日に、リチャード・H・アンダーソン中将の第4軍団が加わったが、1865年4月8日には第4軍団は第2軍団に統合された。第1?第3軍団の軍団長は、1864年から1865年にかけて頻繁に交替した。騎兵軍団はJ・E・B・スチュアート少将が指揮した。騎兵軍団の設立は1862年8月17日で、1864年5月11日(スチュワートが瀕死の重傷を負った日)に廃止され、騎兵部隊は軍直轄となった。予備砲兵部隊はウィリアム・ペンドルトン准将が指揮官を務めた[1]
リー司令官時代に編成された軍団

北バージニア軍の兵力は拡大と縮小を繰り返したが、基本的には以下の構成であった。軍団は、「翼」や「コマンド」と呼ばれることもあった。

第1軍団


第2軍団

第3軍団

第4軍団、アンダーソン軍団と呼ばれることもある

騎兵軍団

作戦及び戦闘

北バージニア軍が参加した主たる作戦・戦闘は以下のとおりである。

作戦年作戦開始時の兵力戦闘
半島方面作戦1862年55,633セブンパインズ(フェアオークス)
七日間の戦い1862年約92,000ゲインズミルマルバーンヒル
北バージニア方面作戦1862年約54,000第二次ブルラン
メリーランド方面作戦1862年約60,000アンティータム
フレデリックスバーグ方面作戦1862年約75,000フレデリックスバーグ
チャンセラーズヴィル方面作戦1863年約75,000チャンセラーズヴィル
ゲティスバーグ方面作戦1863年75,054ゲティスバーグ
ブリストー方面作戦1863年55,221 
マイン・ランの戦い1863年約50,000 
オーバーランド方面作戦1864年62,230荒野の戦いスポットシルバニア・コートハウスコールドハーバー
リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦1864年?65年82,633ピーターズバーグ攻撃クレーターステッドマン砦
アポマトックス方面作戦1865年約50,000ファイブフォークスアポマトックス・コートハウス

1865年4月9日、アポマトックス・コートハウスにおいてリー大将が北軍ユリシーズ・グラント中将への降伏文書に署名し、北バージニア軍がポトマック軍に降伏したことにより、南北戦争は実質的に終了した。翌日、リーは北バージニア軍に対する告別の辞を出している。
歴史
1861年10月22日創立時の編成Battleflag made out of silk from November, 1861

北バージニア軍管区は1861年10月22日に成立した[3]。軍司令官は ジョセフ・ジョンストン大将で、軍管区は3個の小軍管区から構成されていた。

軍司令官:ジョセフ・ジョンストン大将

小軍管区師団旅団指揮官
ポトマック小軍管区P・G・T・ボーリガード大将
第1師団アール・ヴァン・ドーン少将
第2師団グスタヴス・ウッドソン・スミス少将
第3師団ジェイムズ・ロングストリート少将
第4師団エドマンド・カービー・スミス少将
アクイア小軍管区Theophilus H. Holmes少将
フレンチ旅団Samuel Gibbs French准将
第2旅団John G. Walker准将
バレー小軍管区ストーンウォール・ジャクソン少将
ガーネット旅団リチャード・ガーネット准将
アシュビー騎兵旅団ターナー・アシュビー大佐

1862年2月28日の実兵員数は47,617人であった[4]。砲兵は砲兵軍団として組織され、109門の大砲を保有していた。
1862年4月30日の編成Battleflag made of wool, 1862

北バージニア軍の名前が最初に使用されたのは、1862年4月12日の「バージニア小軍管区」と「ノフォーク小軍管区」に対して出された、指揮系統に関する命令においてであった[5]。4月30日時点での軍の編成は以下のとおりであった[6]

軍司令官:ジョセフ・ジョンストン大将

翼師団旅団指揮官
右翼ジョン・マグルーダー少将
マクローズ師団ラファイエット・マクローズ准将
トゥームズ准将ロバート・トゥームズ准将
イーウェル旅団B. S. Ewell大佐
中央翼ジェイムズ・ロングストリート少将
A・P・ヒル旅団A・P・ヒル准将
アンダーソン旅団リチャード・H・アンダーソン准将


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