北ノ庄城
[Wikipedia|▼Menu]
1604年(慶長9年)に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する[9]。完成した城は東が新堀川(現在の荒川)、南は足羽川、北は加賀口馬出までの2キロメートル四方に及んだ[10][11]。本丸には4重5階の天守が建てられた。

柴田氏の北ノ庄城の跡地に、結城氏によって新たに「北ノ庄城」が築城されたため、現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない。1993年(平成5年)から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。

1624年(寛永元年)に福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。改名の経緯に関しては諸説あるが、一説には、北ノ庄城内にあった「福の井」という井戸に因んで改名されたと言われる。

1669年(寛文9年)に天守が焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。幕府から再建の許可が下りなかったとの説もある。
天守

本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣をついて望楼型4重5階の天守が建てられた。高さは、天守台も含めて約37メートルにも及んだ。白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風があり、元和大坂城天守に見られるような配置に破風が並べられていた[12]

1669年(寛文9年)に焼失した[13]後は、同じように類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し天守の代用としている[14]。古写真では、複合式望楼型で1重目と2重目の窓が上下にあることから、3重5階の櫓であったと見られている[15]
石垣

石垣の積み方は、天守台、大手門、櫓台、隅角部等の重要な部分は切込はぎ積で、その他の城壁は打込はぎ積である[16]。また、横線が波立っているが布積である[17]。福井市小山谷町で産出した笏谷石を用いている[18]。石垣の構築には、穴太積で有名な穴太衆も携わったことが推測される[19]。刻印が多く認められるが、石垣普請に携わった藩家臣や石工集団の工事分担などを行うため穿垂れた記号と考えられている[20]。現在は残っていないが、石垣の中に隠出入口が複数あった[21]
遺構等

明治維新後、1871年(明治4年)、福井藩は福井城の解体を政府に願い出、旧城地は1873年(明治6年)陸軍省の管轄となったが、旧藩士たちが1879年(明治12年)同地を借り受け、開墾を進めた[22]。その後、1890年(明治23年)松平茂昭は福井城跡を買い戻し、1893年(明治26年)、松平康荘により、旧城内に農業試験場「松平試農場」が設立され、1921年(大正11年)金津駅東の細呂木村山室口へ移転するまで続いた[23]

1936年(昭和11年)、松平家が城の外郭5万坪を売却。繁華街に沿っている場所は坪当たり150円、その他の場所は坪当たり最低でも100円の価格設定がなされた。この際、は埋められ石垣の一部が取り壊された[24]。21世紀現在、天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁県会議事堂県警察本部などがあり、公園としても整備されている。石垣の一部崩壊に関して、これら施設の重量のせいではないか、と議論されたことがある。本丸御殿の一部は(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築されている。また、天守台のそばには「福の井」という井戸が残っており、この井戸が「福井」の語源由来となったという説がある。この井戸の水は常時定量より減らなかったことから「福の井」と名付けられ、これが城の名前を経て藩名の「福井」になったと言われている。この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがあり、過去に調査がなされた。

福井市足羽5丁目の足羽山麓にある高照山瑞源寺(臨済宗妙心寺派)は、第5代、第7代藩主昌親(吉品)とその母親の高照院の墓所である。寺伝に従い1991年(平成3年)に調査された結果、この寺の本堂と書院が福井城本丸御殿の移築遺構であることが判明した。幕末の1860年万延元年)「御本丸の御小座敷を以って本堂を再建する」と寺伝にある通り、後世に増改築されてはいるが、『福井城本丸御殿の図』(松平文庫蔵)にみられる1831年天保2年)に14代斉承が造営した御小座敷(おこざしき)と呼ばれる建物と一致した。また併設されている書院は、同年同時に作られた、斉承の正妻浅姫(11代将軍家斉の娘)のための御殿「大奥御座之間」であることも建材の墨書などから確認された[25]。また、三の丸に存在した東照宮の唐門が、坂井市春江町本堂にある観音院(八幡神社)に移築されたが1948年(昭和23年)の福井地震により倒壊。一部部材を欠損したものの、大部分の部材は当時の様式を保ち現存する。なお、現在は倉庫にて保管されている。
整備・復元事業

「県都デザイン戦略」の1つとして福井城と周辺の歴史史跡などを整備し、史跡の保全や市民の憩いの場としての整備が進められている[26][27][28]

2008年(平成20年)御廊下橋が復元された。屋根と壁の付いた木造の橋である。

2017年(平成29年)福の井が整備された[29]。井戸の石積みや井戸枠を福井地震前の大きさに復元。また井戸の上屋や釣瓶を新たに設置。

2018年(平成30年)山里口御門が復元された。櫓門と棟門で小さな枡形を形成する珍しい形態の枡形門である。石の瓦屋根というのも珍しい。総事業費は約8億5千万円[30][31][32][33]。2017年(平成29年)11月、工事が完了し内覧会が行われた[34]

福井城 御廊下橋

福井地震で一部が崩壊した天守台石垣

御本城橋

復元模型(足羽山にある)

その他

1910年(明治43年)8月に福井城跡の農業試験場「松平試農場」で撲殺されたイヌ科動物が「日本最後のニホンオオカミ」であったとの論文が発表された[35][36]。だが、この個体の標本福井空襲により焼失したため(焼失前の写真は存在する)、最後の例と認定するには学術的には不確実である[36]福井城墟碑

本丸跡[37]に福井城墟碑がある。松平康荘建碑[38]徳川家達篆額、三島中洲撰、巖谷一六書、酒井八右衛門刻[37]。1900年(明治33年)に、藩祖結城秀康の入府300年を記念して建てられた[38]。福井城の沿革と藩祖の徳とを記す[37][39]
周辺

養浩館庭園

福井市立郷土歴史博物館

御泉水公園

福井県国際交流会館

福井地方裁判所

NHK福井放送局

興宗寺岩佐又兵衛墓所)

交通

JR北陸本線・
福井駅から徒歩7分

北陸自動車道・福井ICから約15分

周辺に有料駐車場あり


脚注[脚注の使い方]^「福井城跡」(福井の文化財-埋蔵文化財)福井県公式HP
^角川日本地名大辞典 18 福井県』


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef