北アイルランド
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その後の数十年間、北アイルランドではユニオニスト党の政権が連綿と続いていた[17]。両コミュニティによる非公式な相互分離[18]が行われ、北アイルランドの第一大臣デヴィッド・トリンブルが「カトリック教徒にとっての冷たい家[19]」と呼んだように、ユニオニスト政権はアイルランドの民族主義者とカトリック教徒の少数派に対する差別で非難されていた[20]

1960年代後半には、カトリック教徒とナショナリストに対する差別をなくそうとするキャンペーンが、それをリパブリカンの戦線と見なしたロイヤリストによって反対された[21]。リパブリカンとロイヤリストの準軍組織と軍が30年に渡って対立し、3,500人以上の命と50,000人以上の負傷者を出した「北アイルランド問題」を引き起こした[22] [23]。1998年の「聖金曜日合意(Good Friday Agreement)」は、準軍の武装解除や治安の正常化など、和平プロセスの大きな一歩となったが、宗派間の対立や隔離は依然として大きな社会問題となっており、散発的な暴力も続いている[24]

北アイルランドの経済は、分割時にはアイルランドで最も工業化が進んでいたが、北アイルランド問題による政治的・社会的混乱の結果、衰退していった[25]。北アイルランドの経済は、1990年代後半から大きく成長した。最初の成長は、「平和の配当」とアイルランド共和国との貿易の増加によるもので、その後も世界中からの観光、投資、ビジネスが大幅に増加している。北アイルランドの失業率は1986年に17.2%とピークに達したが、2014年6-8月期には6.1%となり、1年間で1.2%ポイント減少し[26]、英国の数値6.2%と同様になっている[27]

北アイルランド、アイルランドの他の地域、英国の他の地域の文化的つながりは複雑で、北アイルランドはアイルランドの文化と英国の文化の両方を共有している。多くのスポーツでは、アイルランド島が1つのチームを構成しているが、サッカーの北アイルランドのサッカー代表チームは例外である。北アイルランドはコモンウェルスゲームズでは別個に出場し、オリンピックでは北アイルランド出身者はイギリスアイルランドのどちらかの代表として出場することができる。
歴史

1920年に成立したアイルランド統治法によってアイルランド島は南北に分割(英語版)され、それぞれに自治権が付与された。その後に発生したアイルランド独立戦争の講和条約である英愛条約に基づいて、南部26県によりアイルランド自由国が建国され、グレートブリテン及びアイルランド連合王国より分離した際は北アイルランドも自由国の管轄内に含まれていた。しかしアイルランド自由国で内戦が始まったため、英愛条約の条項に基づいて北アイルランド議会は自由国からの離脱を表明して連合王国に留まることになった。

19世紀にアイルランドがグレートブリテンおよびアイルランド連合王国へと併合されて以来、アイルランドにおいてはユニオニスト(イギリスとの連合維持を主張)とナショナリスト(イギリスからの独立を主張)の対立が続いていた。アイルランド全土がイギリスに支配されていた時代から、北アイルランド地域はグレートブリテン島からの植民者が多数を占めており、ユニオニストの勢力が強かった。また、必ずしもアイルランド人即ちナショナリストではなく、経済的に考えると英国に帰属した方が有利であると考える者も多かった[28]。このようなことが考慮されて、北アイルランドはイギリス統治下に残留することになった。

1960年代後半になると、アメリカ合衆国公民権運動の影響を受けて、社会的に差別を受けていたカトリックの「一人一票」を要求する社会運動が活発になったが、プロテスタント主体であった北アイルランド政府はこれを抑圧。情勢は緊迫化し、深刻な分断と対立が発生した。以降、1990年代前半までIRA暫定派を始めとするナショナリストとユニオニスト双方の私兵組織と、政府当局(英陸軍、北アイルランド警察)とが相争う抗争が続き、血の日曜日事件など数多くの武力弾圧やテロによって数千名にものぼる死者が発生するなど、「北アイルランド紛争」と呼ばれる事態が生じ、社会と経済の混乱は極めて苛烈なものとなった。北アイルランド議会はこの事態に対処できなかったため、1972年3月30日の「1972年北アイルランド暫定法(en:Northern Ireland (Temporary Provisions) Act 1972)」で議会は停止され、翌1973年7月18日の「1973年北アイルランド憲法法(en:Northern Ireland Constitution Act 1973)」によって正式に廃止、翌1974年7月17日の「1974年北アイルランド法(en:Northern Ireland Act 1974)」によって、イギリス本国の枢密院による直接統治が行われるようになった。

1990年代になると和平への道が模索され始め、1998年になるとユニオニストおよびナショナリスト政党、私兵組織とイギリス、アイルランド両政府によってベルファスト合意が形成され、アイルランド政府は国民投票の結果、北アイルランドの領有権を放棄。またこれに基づいて、全政党が参加する北アイルランド議会が復活した。この功績によって、穏健派政党の党首であるデヴィッド・トリンブルジョン・ヒュームノーベル平和賞が授与されている。北アイルランドとアイルランド共和国は自由往来が保障され、国境検問が廃止された[29]

過激派によるテロが収まったことを受け、シティグループ富士通など、外国企業による新たな直接投資が相次ぎ、経済成長を遂げている。

2016年のイギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票で離脱派が賛成多数となったことを受け、再び南部との間の国境問題が浮上した。国境の取扱についてイギリスの議会でも議論がまとまらず、同国の欧州連合(EU)離脱は2020年まで先延ばしを繰り返し厳格な国境の復活は回避された。離脱の移行期間が終了した2020年12月31日以後も北アイルランドはEU単一市場に留まっており他のイギリスの地域とは別の扱いを受けている[30][31]。代わりに、グレートブリテン島との間のアイリッシュ海に、イギリス国内でありながら通関などの手続きが必要な事実上の境界が設けられている[29]
政治ベルファスト議会議事堂

1960年代に北アイルランド問題が発生する以前、本土の政党との関係で言うと、アルスター統一党保守党に代わり、アルスター自由党が自由党に代わり、それぞれストーモント議会(The Parliament of Northern Ireland・旧議会)を支配していた。北アイルランド労働党については、本土の労働党と強い協力関係を有していなかった。この他、アイルランド統一を掲げるナショナリスト党とシン・フェインが活動していた。

1960年代の後半から1990年代にかけ、宗教差別を発端としたユニオニスト、ナショナリスト両勢力の私兵組織が騒乱やテロを繰り返す、いわゆる「北アイルランド問題」が巻き起こり、1972年にストーモント議会が廃止されてイギリス政府による直接統治が始まった。この社会的混乱に各政党も強い影響を受けた。アルスター統一党は、サニングデール合意を批判して保守党との関係を断絶した。アルスター自由党は、自由民主党へと衣替えしたが支持を失い、現在、同盟党の姉妹政党に落ちついている。解党された北アイルランド労働党の一部の議員によって社会民主労働党が結党された。

近年になり、イギリスの主要政党が北アイルランドの選挙に参加しようとする動きが見られる。保守党は、1980年代の終わりから候補者を送り出しているが、ほとんど支持を得られていない。自由民主党は、同盟党を支援している。


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