匈奴
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匈奴の名称はフン族やフナ族の名称と同根である可能性[4] [5] [6]もあるが、これには異論がある[7][8]。その他、イラン語[9] [10] [11]モンゴル語[12]トルコ語[13] [14]ウラル語[15]エニセイ語、多民族などの言語的なつながりが提案され、いずれも異論がある[16]
名称
語源

「匈奴」という名称は彼らの自称した(もしくは他称された)民族名の音訳と考えられており[注釈 1]、その語源については諸説ある[17]

葷粥(くんいく)の古代音「ヒュエンツュク」からきているとする説[18]

「匈奴(Chiung-nu)」という名称はその始祖である「淳維(中国語版)(Chiun-yu)」からきているとする説[注釈 2]。ただし司馬遷史記』卷110『匈奴列伝』の説に従えば、四方に住む全ての異民族は華夏の苗裔となる[19]

「匈」「奴」ともに漢語における悪字で、匈は胸に通じ「匈匈」は喧騒・騒乱を意味する、奴も下に見た呼び方で、「匈奴」は騒乱を起こす連中の意、これを・春秋戦国時代の北方民族の音写「葷粥」「貉」「昆夷」「??」に当てたとする説[20]

匈奴という族名はそのトーテム獣の名称であり、ノヨン・オール(ノイン・ウラ)匈奴王侯墳出土の縫込刺繍毛織物に見られる豕形奇獣がそうではないかとする説[17]

また、漢文史書に出てくる「匈奴河水」という河川名が匈奴の語源なのか、匈奴が割拠していたからついた河川名なのかは不明である[17]
読み

現在、「匈奴」は中国語(普通話、北京官話)では「ションヌゥ(?音: Xi?ngnu)」、日本語の漢音で「きょうど」と読まれている。そして、中国史における呼称の例に倣い、現代の非漢字圏における呼称も普通話に準じてXiongnuと表記するのが一般である。しかし、中国語音韻学の研究によれば、前漢代における「匈奴」の発音は、各地の現在の発音とは大きく異なっていたと考えられている。まず、中国語音韻学の知見に基づく古典的な推定音[21]の代表的なものを下に記す。

「匈奴」の推定上古音(推定される秦漢期の発音)研究者カールグレン王力李方桂
発音記号xi?u? noxio? nahju? na?
カタカナ近似ヒュン・ノヒョン・ナヒュン・ナグ

しかし、上述のように、「匈奴」はあくまで漢代の人による漢字音写であることから、漢字の推定音がそのまま彼らの発音ではない。この点、中国語音韻学の研究と相前後して、歴史学者は様々な観点を加味して、「匈奴」がどのような発音を記していたのか(漢語の音写元となる発音)を考察している。

チェコスロバキアのG.Haloun(英語版)は古代中国語ではxbron-noであったとした。

白鳥庫吉は「奴(ヌ・ド)」の字が古代中国では「ナ」と発音されHu-na、Hun-naであったとした[22]

桑原隲蔵はHunniであったとした[23]

内田吟風は、ほぼfl??-nahであったとし、4世紀にヨーロッパを席巻したフンを指す古代ギリシア語の「Φρο?νοι」と関連し、五胡十六国時代タリム盆地などにおいてソグド人前趙の匈奴人を「フン」と呼んでいたこと[注釈 3]と合わせ、「匈奴」の古代音は「フン」ないし「フルノイ」に近いものであったとした[25]

その他、ヨーロッパ・ソビエト連邦の学者によって断片的に様々な論考がなされた。

「フンナ(Hun-na)」説に関しては、前述ソグド人による呼称、現代モンゴル語で人間を表す単語が「フンニー(モンゴル語: х?ний, ラテン文字転写: Khunii)」であることなどから、18世紀以降から現代に至るまで直接的に同一視するものから一部に関連があったとするものまで、匈奴とフン族を結び付ける様々な説(フン=匈奴説)が提唱されているが、決定的な見解は未だ出ていない[26]
起源
史書による起源

史書における記述としては、『戦国策』、『山海経』、周代の詔勅文書を集めた『逸周書』(いずれも戦国時代末期?前漢初期の成立)に匈奴の名が登場する。直接的な言及は、『戦国策』・燕策・燕太子丹質于秦に登場するのが最も早期のため、仮託した記述としては、『逸周書』・王会篇・湯四方献令に周の初めにラクダ白玉、良弓を貢献する民族という記述がある[注釈 4]
考古学による起源

スキタイは近年、東方起源説が有力になっている[注釈 5]。墳墓の出土品(金製品など)から漢(中国)?匈奴(ブリャーチャ)?サルマタイ(西北カフカス)の間に交易が行われていたとされる[28]
歴史紀元前210年、匈奴(上部)と(簡体字中国語)。紀元前2世紀、匈奴の最大版図とその周辺国(英語)。Xiongnu khanate=匈奴、Chinese Han Dynasty=前漢、Greco-Bactrian Kingdom=グレコ・バクトリア王国、Mauryan Empire=マウリヤ朝、Seleucid Empire=セレウコス朝紀元前2世紀、匈奴とその周辺国。
戦国時代

紀元前318年、匈奴はの五国と共にを攻撃したが、五国側の惨敗に終わった[29]

趙の孝成王(在位:前265年 - 前245年)の代、「単于」(ぜんう)の匈奴軍は雁門で、将軍の李牧率いる趙軍に撃破された[30]
頭曼と冒頓

紀元前215年、匈奴は将軍の蒙恬率いる秦軍の攻撃を受け、河南の地(オルドス地方)から駆逐されると共に、秦は長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防いだ。単于の頭曼始皇帝および蒙恬の存命中に中原へ侵入できなかったものの、彼らの死(前210年)によって再び黄河を越えて河南の地を取り戻すことができた。ある時、頭曼は太子である冒頓を西の大国である月氏へ人質として送った。しかし、頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を攻撃し、冒頓を殺させようとした。冒頓は命からがら月氏から脱出して本国へ帰国すると、自分に忠実な者だけを集めて頭曼を殺害し、自ら単于の位についた。

単于となった冒頓は東の大国である東胡に早速侵攻してその王を殺し、西へ転じて月氏を敗走させ、南の楼煩、白羊河南王を併合した。さらに冒頓は楚漢戦争中の中原へも侵入し、瞬く間に大帝国を築いていった。

[31]
白登山の戦い詳細は「白登山の戦い」を参照


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