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1871年の新貨条例では日本量目の比較表では「戔」とされており、貨幣略図并品位量目表に「匁」の名が現れる[17]。1891年の度量衡法で法的にメートル法を基準とした「匁」が登場した[18]。日本においても正規の名称は明治初期まで「銭」であった[3]

読み「もんめ」は、一銭の質量であることから「文目」(もんめ)と呼んだことに由来する。「目」は、「の目」の意味から転じた、質量を意味する接尾辞で、「目方」と同じ意味である。「匁」の文字は「文」と「メ」を組み合わせたものであるとする説があり[2]、また「銭」の異字である「泉」の草書体に由来するともされる[3][19]

漢字「匁」は本来「銭」の異体字として中国で使用されていた字で日本の国字ではないとする見解もあるが[20]、字書類に載っていない上に日本で「もんめ」の漢字として本来の銭を圧倒して使われたために、しばしば国字の例としてあげられる。
もんめ(日本の計量法上の名称)

匁は真珠の質量の単位として商取引上、国際的に使われているので、日本の計量法において、「真珠の質量の計量」にのみ使用することが認められている法定計量単位である[21]。これは真珠が日本の特産品であったことによるものである。この場合の単位名は平仮名表記の「もんめ」であり、漢字表記の「匁」ではない。その単位記号はmomと定められている[22]。「もんめ」は英語などでは"momme"と綴られている。なお、国際単位系においては、「もんめ」の単位は認められていない。
英語名

英語では mace(メイス)と呼び、これはマレー語の mas からオランダ語の maes を経由した借用語である[23]。マレー語の mas はさらに、サンスクリットの m??a(マーシャ)に由来し、これはインドベンガル地方の質量の単位マーシャ m?sha(≒0.972 g)の語源でもある[要出典]。

香港英語では広東語由来のtsin[24]シンガポール英語では?南語由来のchee[25]とも言う。
桁の表現

江戸時代の銀目において20匁以上のとき、10匁単位(10匁の整数倍)の場合には、匁の代わりに「目」(め)と呼ぶことがある[9]。例えば30匁は三十目、300匁は三百目とも呼ぶ[4]。ただし、10匁単位でない場合はこの表現はせず、たとえば、27匁を27目のようには言わない。また、この「x十目」中の「十目」あるいは「百目」は10匁・100匁に等しい独立の単位ではなくあくまで10匁・100匁の別の表現なので、たとえば232匁を二百目三十二匁などとは言わない。

1⁄10銭は(ふん)、1⁄100銭は(りん)、1⁄1000銭は(もう)となる(1⁄10匁等についても同様)[6]。この場合、の用法と同じであり、基本単位「両」を十割として0.1割を1分、0.01割を1厘とするため、見かけ上は両の1⁄100が1分、1⁄1000が1厘となる。匁は1割に相当し、両の補助単位である。「分」を「ぶ」と読まず「ふん」と読むのは、金貨の通貨単位である一分(ぶ)との混同を避けるためである[注釈 2]。これは質量の単位であるがゆえの例外であり、これに対したとえば1⁄10の「分」は「ぶ」と読む[注釈 3]
中国(銭)

代の開元通宝10枚の質量が24銖すなわち1に相当したことから、1枚あたりの質量を「銭」と呼ぶようになった[26]。それ以来現在にいたるまで、10銭 = 1両の関係が保たれている。

ただし、開元通宝のような鋳造銭は規定の質量があるとはいえ、鋳造による大小あり一様でないため貨幣そのものが分銅代わりになったわけではない[27]

現在の定義(市制)では1銭=5gである。

近代の中国では、実用されていない単位であるが、メートル法での10gに当たるデカグラム(dag)に「銭」の字を当て「公銭」と称していたことがあった。
江戸時代の銀目



使用
国・地域 日本江戸時代
補助単位
 1/10分(ふん)
 1/100厘
硬貨丁銀, 小玉銀
紙幣銀札, 銭匁札
硬貨鋳造銀座
概ね「銀一匁」相当の慶長豆板銀(右: 3.768 g)および、ほぼ一戔(匁)の寛永通寳(左: 3.740 g)。古寛永、文銭、耳白銭などは一戔を基準に造られたが、実際には鋳造に伴う大小があり3.0 gを切るものから4.5 gを超えるものまである。銀一匁札。備後福山藩(享保15年)。
秤量貨幣単位としての匁

質量単位としての「銭」が日本に伝わり、日本では「文目」の意から「もんめ」とも呼ぶようになった。「匁」は主に金銀の量目の単位として使われ、江戸時代丁銀小玉銀は「匁」を単位とする目方通用の秤量貨幣であり、丁銀の方は五百目包の形態として使用された[28]。この様な秤量銀貨の掛目(実測値)が通貨単位として使用され、商品の値段は必ず銀目で建てられた[5]。1609年(慶長14年)に150目(匁)、1700年(元禄13年)に金1両=銀60目とする御定相場が公布されたが、実態は市場経済による変動相場であった[29]

1665年(寛文5年)に度量衡の「衡」が統一され、両替商で用いられる分銅後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた[30]。この分銅は「両」を基本単位としており一両から三十両(または五十両)があり、その補助単位「匁」に相当する小分銅の単位表記は「戔」である。秤量銀貨の通貨単位は日本では銀一両といえば銀4.3匁のことを指し[11]、43匁は「銀一枚」と称し献上銀・被下銀は丁銀に小玉銀を掛け足して「枚包」とするのが江戸時代以前からの習慣であった[31]。また小判の通貨単位の「両」との混同を避ける意味から銀の単位は「匁」および「貫」が用いられた。すなわち、掛目が伍両(5両)の丁銀は銀50匁(銀50目)と表した。

「銀一匁」の価値は丁銀の銀品位によって異なり、例えば目まぐるしい改鋳が行われた宝永年間以降、数種の銀が混用された正徳享保年間では商品相場に銀の種別の相場が併記されることもあった[32]。例えば、享保3年11月頃(1718年)、肥後1に付[33]

慶長銀新銀にては、米1石 代33匁

元禄銀にては、同 代41匁2分5厘

宝永銀にては、同 代52匁8分

永中銀にては、同 代66匁

三ツ宝銀にては、同 代82匁5分

四ツ宝銀にては、同 代133匁〔ママ

匁の名目化

日本において金貨の貨幣単位として認識されている「両」は「両目(量目、りょうめ)」というように本来質量の基本単位であり、金一両は量目1両分の金が基準にあったが、度重なる改鋳により時代の変遷とともに金一両は1両分の金から乖離して次第に名目化が進行し、イギリスポンドも同様に貨幣単位と質量単位が乖離していったのであったが[34]、「匁」については慶長から安政に至るまで江戸時代を通して銀貨の掛目[注釈 4]として維持され独立した貨幣単位としての名目化はなかったとの見方もある[16]


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