動物の権利
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ゲイリー・フランシオンなど動物の権利を支持する者は、商業畜産や動物実験狩猟等、動物を搾取し苦しめる行為を全面的に廃止するべきだと訴え、人々にヴィーガニズムの実践を呼びかけている[10]

現代の代表的な倫理学者で動物の問題について発言している人はほぼ例外なく動物が直接の配慮の対象になるべきだという立場である[11]

「倫理判断は普遍化可能である」「遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」「動物も人間と同じように苦しむ」「認知能力や契約能力等、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)」「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」、これらの組み合わせから容易に「動物にも『人権』があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける[11]

権利は法律で定められていなくても道徳的に認められる場合があり、この道徳的権利は法的権利に対し指針を与える[3]
概念の歴史

今日の動物の権利に関する議論は、最も初期の哲学者たちまでさかのぼることが可能であろう。紀元前6世紀のギリシアの哲学者であり数学者でもあったピュタゴラスは輪廻転生を信じていたため、動物に敬意を払うように主張した。一方、同じアテナイ人であるアリストテレスは紀元前4世紀の著作の中で、動物は理性を持たないため自身の権利はなく人間の利益のためにだけ存在しているとし、存在の偉大なる連鎖(英語版)―あるいは自然の階梯 (scala naturae) ―の中で人間よりもはるか下方に位置すると論じた。

17世紀、フランスの哲学者ルネ・デカルト (1596?1650) は『方法序説』(1637) において、動物は精神を持たず考える事も苦痛を感じる事もないため、動物に対してどんなにひどい扱いをしようが間違いであることはあり得ないと主張した[12]。これに対し同じフランス人のジャン=ジャック・ルソー (1712?1778) は、『人間不平等起源論』 (1754) の序文で次の様に論じた:人間は「知性と自立した意思を欠いた存在」でこそないものの、出発点は動物である。さらには動物は感覚を持つ存在であるため、「自然権を持つものに含まれるべきであり、人間は動物に対して責務を負っている」、とりわけ「無益に虐待されることのない権利を有するものである」

ルソーと同時代には、ジョン・オズワルド(英語版) (1730?-1793) がいる。The Cry of Nature or an Appeal to Mercy and Justice on Behalf of the Persecuted Animals の中で彼は次の様に論じた:人間は生まれつき慈悲と思いやりの心を備えている。もし自分が食べる動物が死ぬのを見なければならないとしたら、菜食主義者になる人は今よりはるかに増えるだろう。しかしながら分業が発達したために、近代の人間は生まれつきの思いやりの心を起こさせることなく肉を食べられるようになる一方で、残忍な行いに慣れていった。

ドイツの哲学者であるイマニュエル・カント (1724?1804) は、人間が動物に対して責務を負うという考えを否定した。カントは、動物は人格ではなく物であり単なる手段として使ってかまわない。ただし、動物を残虐に扱う習慣は、他の人間に対しても冷酷にふるまう行動につながってしまうため慎むべきであるとした[12]

18世紀後期、近代功利主義の創始者でイギリスの哲学者、ジェレミ・ベンサム (1748?1832) は動物の苦痛は人間の苦痛と同じくらい確かで類似したものであるとし、「人間以外の動物が専制政治の手によってしか奪うことのできない様な権利を手にする日がいつか来ることであろう」と述べた。彼は、理性があるかどうかではなく、苦しむかどうかということこそが、我々が人間以外の存在を扱う際の基準であるべきだと主張し、もし理性的能力が基準となるのであれば、赤ん坊や障害者などを含む多くの人間が物の様に扱われることにならなければならないと論じ以下の有名な一節を残している。感覚を持つ生き物を同じ悲運に追いやる理由として、脚の本数や、皮膚の毛の密度や、仙骨の末端(尾のあるなし)のどれもが十分な理由とはならないと認められる時代が来るであろう。しかし他に何が超えられない一線となるのだろうか? 理性的な能力、あるいはもしかして議論をする能力だろうか? だが成長した馬や犬などの我々がよく知っている動物は、生後一日か一週間、あるいは一ヶ月の赤ん坊よりもはるかに理性的である。とは言え、もしそうではなかったとしても、そのことに何の意味があるだろう? 問題は、理性があるか、話す事ができるか、ということではなく、苦痛を感じるということである。なぜ法律はいかなる感覚を持つ生き物をも保護の対象としないのだろうか? いつの日か人類社会はその庇護のマントを、呼吸をする存在すべての上にまで広げることになるだろう。『道徳および立法の諸原理序説』(1789年)

19世紀にアルトゥル・ショーペンハウアー (1788-1860) は、動物は理性的能力が欠けているにもかかわらず、人間と同じ本質を有すると述べた。彼は菜食主義を必要以上のものと見なしたが、動物に道徳的配慮がなされるべきだと論じ、動物実験に反対した。彼が著したカントの倫理的価値観に対する評論においては、カントの道徳体系から動物が除外されていることを批判した、長くてしばしば激烈な議論が見られる。その中には以下の有名な一節も含まれる:「太陽を見るすべての目の完全な調和を見ようとしない道徳など呪うべきものである」

1859年、ダーウィンが「種の起源」を出版し、動物も人も共通の祖先をもち、動物と人とは連続しているという説を示した。それまでは、神が自分に似せて人間を作り、その他の動物も神が創造したと信じられてきたため、神の創造を否定したこの衝撃は大きかった。進化の歴史やの歴史や生命のあり方を見ても人と動物の境界を定めることはできない。つまり、人と区別を付けられない動物の権利を認めないわけにはいかない[13]。「種の起源」が動物の権利の歴史に寄与した意義は大きかったといえる[14]

イギリスの社会改革者、ヘンリー・ソルト(英語版) (1851?1939) が1892年に出版した大きな影響力を持った著書 Animals' Rights: Considered in Relation to Social Progress の中では動物の権利の概念が主題として扱われている。彼はこの本を出版する前年にスポーツとしての狩猟を禁止することを目的とした、人道主義同盟 (Humanitarian League) を設立している。

ナチス・ドイツにおける新政権が最初に立法化した法律のひとつは動物の権利に関する法律である。しかし、ロベルタ・カレチョフスキー(英語版) などの作家はナチスが動物実験の存続を許していたと反論している。カレチョフスキーはナチスの反動物実験法を検証した『ランセット』の記事を引用し、この法律は動物実験を規制はするものの廃止はしなかった、1875年に制定されたイギリスの法律と何ら変わりはないと結論づけた。

注)当項目は en:Animal rights 16:41, 2 October 2006 の翻訳に基づく。

2013年、西部邁(元東京大学教授)は哺乳類の動物の意識について次のように述べた。

「動植物の命を山ほど食いちらかすばかりか、獣以上に欲動に駆られて生きているくせに、自分の命が大事とは聞いて呆れる」と皮肉を述べたいのではない。「自然によって生かされていると殊勝気にいっているが、“俺を食いな、お前を生かしてやる”と自然は本当にいったのか」と反論したいのでもない。ただ、物言わぬ動物の物言いたげな様子のことを思うと、とくにそれが死を間近にしたものであるとき、我知らず情愛がこみ上げてきて、心を動かされるのである。

[中略]

少なくとも哺乳類の動物は、自分の命が途絶えると直感するとき本能のレヴェルで哀しいと幾許かは感じるのではないか。その可能性を私は否定することができない。いや、本能といってはならないだろう。彼らにとて幾分かの意識があるに違いなく、自分に迫りくる死を僅かにせよ意識するところから哀しみが生じるのではないか。あの犬やあの猫の目は単なる生命力の衰えではなく、自分の衰えをかすかに意識するものの哀しみを漂わせていた、と考えられてならない。 ? 西部邁「死に逝く動物たち」『生と死、その非凡なる平凡』新潮社、2015年、151-153頁。 
現代の運動の歴史

現代の動物の権利運動の始まりは1970年代初期にさかのぼることができる。この社会運動は哲学者によって生み出され、現在もなお最前線で続いているものとして、珍しい例の一つとなっている。

1970年代初頭、オックスフォード大学の哲学者のグループが、人間以外の動物の道徳的地位は、必然的に人間の道徳的地位に劣るものであるのかどうかを検討しはじめた。このグループの中の一人に、1970年種差別という言葉を作り出した、心理学者リチャード・D・ライダーがいた。彼はこの言葉を、個人的に印刷したパンフレットの中で、ある特定の種(人類)であることを根拠に、自分たちの利益を他の動物の利益に優先させる態度を説明するため、初めて使用した。

ライダーは、ロズリンド&スタンリー・ゴドロヴィッチとジョン・ハリスが編集し、1972年に出版された重要な本、Animals, Men and Morals: An Inquiry into the Maltreatment of Non-humans(「動物・人間と道徳、人間以外のものに対する虐待の研究」)の寄稿者となった。現在、プリンストン大学 Human Values センターの生命倫理学教授であるピーター・シンガーは New York Review of Books でこの本を批評し、功利主義を土台にして基本的な議論をおしすすめた。その延長としてシンガーにより1975年『動物の解放』が書かれた[15]。この本はしばしば動物の権利運動におけるバイブルとして取り上げられる。

1980年代1990年代になると運動には、神学者法律家医師心理学者精神科医獣医師病理学者、そしてかつて動物実験にたずさわっていた人など多様な学者や専門家の人々も加わるようになっていった。

現在、欧米の大学の哲学応用倫理学の課程で動物の権利が取り上げられることは、普通のこととなった。2011年時点で、アメリカカナダの135のロー・スクールにおいて、動物の権利や保護に関する法律 (animal law) が教えられている。トロント在住の法律家である、クレイトン・ルビー(英語版)は、2008年に「動物の権利運動は25年前に同性愛者の権利運動がいた段階にまで到達した」と述べている[16]

その他の運動の草分けとなったとされる本には以下のものがあげられる:


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