大手企業を相手に数多くのキャンペーンを行い、メディアを使った派手なキャンペーンでも有名である。会長のニューカークは 、毎週PETA の会議室で今後の戦略を検討している。[8] PETAは1980年3月に、イングリッド・ニューカーク
概要
現在、大きく分けて4つの問題に取り組んでいる。工場畜産、毛皮工場、動物実験、動物を使った娯楽についてである。肉食や釣り、害獣駆除、鎖につながれたままの飼い犬、闘鶏、闘犬、闘牛に対しても反対の姿勢を見せている[4]。
設立までイングリッド・ニューカーク
ニューカークは1949年イングランドのハートフォードシャーで生まれ、後に航海士であった父の駐留するインドのニューデリーで育った。現在は無神論者であるが修道院で教育を受けている。10代の頃アメリカに移り住み、最初は株式仲買人になるために勉強していたが1969年に捨て猫の収容所の状況を見て愕然とし、動物保護の道を選んだ[11]。彼女はモンゴメリー郡の動物保護官になり、後にワシントンD.C.で初の女性動物収容所担当官になった。1976年まで市の公衆衛生委員会の動物疾病管理局長を務め、1980年にはワシントニアン・オブ・ザ・イヤーの一人に選ばれている[8][12]。動物保護施設での動物の扱われ方に彼女は衝撃を受けたとザ・ニューヨーカーで語っている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私 はいつも本部へ行き「ジョンが犬を蹴り飛ばし冷凍庫に入れています。」とか「動物を踏みつけブドウのように潰して気にも留めていません」と伝えていました。終いには誰もいない早い時間に出勤し、自分自身で動物たちを殺していました。そうしたことを見過ごすことに耐えられなかったのです。毎日1000匹以上殺さなければなりませんでした。中には動物に苦痛を与えることに喜びを感じているものもいました。帰宅途中それを思い、ただただ泣いていました。そして、これは正しくないことだという確信がありました。[8]アレックス・パチェコ
彼女は19歳で結婚していたが1980年に離婚、その年にジョージ・ワシントン大学で政治学を専攻していたアレックス・パチェコと知り合った。パチェコは聖職の勉強をしていたがエコテロリストのシーシェパードの船に乗組員として働くようになった[13]。その後ニューカークの働いていた収容所でボランティアとして働き、恋に落ち共に暮らすようになった。ただ、ニューカークはずっと年上で経験を積んでいたが、パチェコはやっと自分の面倒が見られる状態だった[14]。
パチェコは1975年に発刊されたピーター・シンガーの動物の権利について書かれた著書『動物の解放』をニューカークに紹介した[13]。ニューカークは『動物の解放』に感化され、1980年3月、パチェコに PETA の創設に力を貸して欲しいと説得した。その時点ではまだ5人しかメンバーがいなかったと彼女は語っている[9]。ほとんどが地元の菜食主義者の学生たちであったが、パチェコの友人でイギリスの動物実験反対団体 British Union for the Abolition of Vivisection にも関わるようになるイギリス人活動家キム・ストールウッドもいた[15][16]。