動物の倫理的扱いを求める人々の会
People for the Ethical Treatment of Animals
創立者イングリッド・ニューカーク、アレックス・パチェコ
設立1980年3月
所在地ノーフォーク
主眼動物の権利、動物愛護、動物福祉
収入3500万ドル(2013年度)[1]
従業員数1157人[2]
標語
動物は、食べ物、衣類、実験、娯楽、いかなる虐待のためにも存在しているわけではない。
Animals are not ours to eat, wear, experiment on, use for entertainment, or abuse in any way
ウェブサイト ⇒People for the Ethical Treatment of Animals (PETA): The animal rights organization
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闘牛に裸で反対するPETA[3]
動物の倫理的扱いを求める人々の会(どうぶつのりんりてきあつかいをもとめるひとびとのかい、英: People for the Ethical Treatment of Animals 、PETAもしくはPeTA、読み方はピータ) はアメリカの動物の権利(アニマルライツ)運動団体、もしくは、動物保護団体、動物擁護団体。
スローガンは「動物は、食べ物、衣類、実験、娯楽、いかなる虐待のためにも存在しているわけではない。」[4]
1980年3月に、ノーフォークで創立されイングリッド・ニューカーク
(英語版)が会長を務める。アジア太平洋地域、イギリス、インド、オーストラリア、オランダ、ドイツ、フランスに支部があり、ポール・マッカートニーやライアン・ゴズリング[5]、ホアキン・フェニックス、ブリジット・バルドーなどの有名人らを含めた900万人の会員と支持者を持ち[6]、世界最大規模の動物保護団体である[7]。大手企業を相手に数多くのキャンペーンを行い、メディアを使った派手なキャンペーンでも有名である。会長のニューカークは 、毎週PETA の会議室で今後の戦略を検討している。[8] PETAは1980年3月に、イングリッド・ニューカーク
概要
現在、大きく分けて4つの問題に取り組んでいる。工場畜産、毛皮工場、動物実験、動物を使った娯楽についてである。肉食や釣り、害獣駆除、鎖につながれたままの飼い犬、闘鶏、闘犬、闘牛に対しても反対の姿勢を見せている[4]。
設立までイングリッド・ニューカーク
ニューカークは1949年イングランドのハートフォードシャーで生まれ、後に航海士であった父の駐留するインドのニューデリーで育った。現在は無神論者であるが修道院で教育を受けている。10代の頃アメリカに移り住み、最初は株式仲買人になるために勉強していたが1969年に捨て猫の収容所の状況を見て愕然とし、動物保護の道を選んだ[11]。彼女はモンゴメリー郡の動物保護官になり、後にワシントンD.C.で初の女性動物収容所担当官になった。1976年まで市の公衆衛生委員会の動物疾病管理局長を務め、1980年にはワシントニアン・オブ・ザ・イヤーの一人に選ばれている[8][12]。動物保護施設での動物の扱われ方に彼女は衝撃を受けたとザ・ニューヨーカーで語っている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私 はいつも本部へ行き「ジョンが犬を蹴り飛ばし冷凍庫に入れています。」とか「動物を踏みつけブドウのように潰して気にも留めていません」と伝えていました。終いには誰もいない早い時間に出勤し、自分自身で動物たちを殺していました。そうしたことを見過ごすことに耐えられなかったのです。毎日1000匹以上殺さなければなりませんでした。中には動物に苦痛を与えることに喜びを感じているものもいました。帰宅途中それを思い、ただただ泣いていました。そして、これは正しくないことだという確信がありました。[8]アレックス・パチェコ
彼女は19歳で結婚していたが1980年に離婚、その年にジョージ・ワシントン大学で政治学を専攻していたアレックス・パチェコと知り合った。パチェコは聖職の勉強をしていたがエコテロリストのシーシェパードの船に乗組員として働くようになった[13]。その後ニューカークの働いていた収容所でボランティアとして働き、恋に落ち共に暮らすようになった。ただ、ニューカークはずっと年上で経験を積んでいたが、パチェコはやっと自分の面倒が見られる状態だった[14]。
パチェコは1975年に発刊されたピーター・シンガーの動物の権利について書かれた著書『動物の解放』をニューカークに紹介した[13]。ニューカークは『動物の解放』に感化され、1980年3月、パチェコに PETA の創設に力を貸して欲しいと説得した。その時点ではまだ5人しかメンバーがいなかったと彼女は語っている[9]。ほとんどが地元の菜食主義者の学生たちであったが、パチェコの友人でイギリスの動物実験反対団体 British Union for the Abolition of Vivisection にも関わるようになるイギリス人活動家キム・ストールウッドもいた[15][16]。その頃パチェコはヨーロッパでも活動しており、最初は消極的で「あまりいいとは思わなかった」とロサンゼルス・タイムズで語っている。しかしニューカークの説得で参加していくこととなる[13]。
シルバースプリング事件詳細は「シルバースプリング事件(英語版)」を参照PETAは画像に「これは生体実験です。そうではないとは言わせない。」と説明文をつけて公表した[17]。