労働党_(イギリス)
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社会主義インターナショナル進歩同盟の加盟政党である[11][12][13]
歴史
結党 (1900年)

1900年に労働代表委員会として発足し、1906年に労働党へ改称した[2]。結党以来、社会民主主義政党として労働者の生活の向上を唱え、失業保険の充実、社会保障制度の整備などに努めてきた。
マクドナルド政権 (1924年、1929年-1935年)

1924年ラムゼイ・マクドナルド党首がジョージ5世からの組閣要請で自由党の閣外協力で史上初の労働党政権の首相兼外相に就任するが、ジノヴィエフ書簡などの影響で同年の総選挙で敗北し、9ヵ月で退陣した。1929年、マクドナルドは第2次の労働党単独内閣を組閣する。1931年から1935年までは、ジョージ5世からの大命で労働党を除く挙国一致内閣の首相を彼が務めた。1931年には非常関税法を制定、インヴァーゴードン反乱によるポンド危機で金本位制を放棄し、通貨安競争を起こした。またウェストミンスター憲章を制定してイギリス連邦を発足させた。経済政策では恐慌対策で党の方針に反して離党し、1931年には非常関税法、1932年には保護関税法を制定し、スターリングブロック経済を構築した。外交面ではロンドン会議でロンドン海軍軍縮条約を成立させた。
アトリー政権 (1945年-1951年)

労働党が行った福祉政策の方向性を指して、「ゆりかごから墓場まで」という言葉が作られた。また、1935年に党首に就任したクレメント・アトリー第二次世界大戦勝利直前の1945年総選挙で労働党を勝利に導き、挙国一致体制で戦時下の舵取りを担った保守党のウィンストン・チャーチル政権を下野させ、ジョージ6世からの組閣大命を受け首相に就任した。アトリー内閣では石炭鉄道、通信などの重要基幹産業の国営化を行った。ただし、フェビアン協会の影響力などもあり、党内で教条主義の影響力は限られ、キリスト教社会主義社会改良主義の影響が強かった。また組織としては労働組合の組合員が事実上自動的に労働党員となるなど、組合の影響力が非常に大きかった。
アトリー政権後

1951年総選挙で労働党は敗北し、チャーチルが首相に再就任して保守党に政権を奪還されたものの、基本的にアトリー労働党内閣の福祉国家政策は継承された。しかし、こうした福祉政策の充実と基幹産業の国営化は、植民地独立によるイギリス帝国の没落と共に国家財政を逼迫させ、経済の悪化をもたらした。この状況は英国病と呼ばれた。この間、労働党はハロルド・ウィルソン1964年 -1970年1974年 - 1976年)とジェームズ・キャラハン(1976年 - 1979年)という2人の首相が政権を担当したが、キャラハン内閣時代に、優遇された労組の度重なるストライキにより社会が麻痺状態に陥った不満の冬1978年 - 1979年)がイギリス国民の労働党不信を決定づけ、以後、労働党は18年に渡り政権から遠ざかることとなった。1980年代から1990年代中頃までの保守党政権時代で特にマーガレット・サッチャー内閣にとってはこの英国病の克服は重要な課題であった。
ブレア政権 (1997年-2007年)

保守党のサッチャー政権の下で新自由主義に基づく構造改革が進み、経済状況が回復する中、従来の福祉国家路線に拘り、労働組合に依存する労働党は一般有権者の支持を得られず、党勢の低迷が続いた。そこで、1994年に党首となったトニー・ブレアは既存の福祉政策でもサッチャリズムでもない自由主義経済と福祉政策の両立を謳った「第三の道」路線を提唱し、労働組合の影響力を大幅に減らした「New Labour(新しい労働党)」をアピールした。

これにより、保守党政権によって拡大した所得の格差に不満を持った人々や、長期政権に飽きていた有権者の支持を集めて、1997年総選挙で地滑り的な大勝を収める。以後、「福祉のニューディール」やスコットランド議会の再開などの地方分権が進められている。この「第三の道」路線はヨーロッパ諸国の社会民主主義政党にも大きな影響を与えた。結果的に、ブレア政権下では労働党史上初となる総選挙での3期連続勝利をもたらした。

一方、外交・安全保障面では対テロ戦争でのアメリカ追随の姿勢には、閣僚の中からも批判の声があがり、支持率が低下。保守党が若手のデーヴィッド・キャメロンを党首に選出して変化をアピールしたことなどから、統一地方選で労働党は敗北し、ついには保守党に支持率で10%もの差をつけられるまでに陥った。このため、2006年9月には2007年秋までにブレアが首相・党首を辞任する意向であると発表された。
ブラウン政権 (2007年-2010年)

2007年5月、ブレアは正式に退陣を表明し、6月の臨時党大会で財務大臣ゴードン・ブラウンが後継党首に選出された。その後、6月27日にブレアは首相を辞任、ブラウンが新首相に就任した。なお、ブラウンが党首になった時点での世論調査では労働党の支持率が一時的に回復し、保守党を上回った。

しかし、2008年2009年の統一地方選挙では保守党に相次いで大敗するなど党勢は低迷。2009年には英政界を巻き込んだ経費不正請求のスキャンダルにより、ブラウンを始め多くの議員が関与していたことが発覚した。

2010年総選挙において、労働党は改選前と比べ90議席以上を減らして惨敗。しかし、保守党も過半数確保には至らず、36年ぶりとなる「ハング・パーラメント」(宙吊り議会)に陥った。労働党は自民党と連立協議を行ったが不調に終わり、13年ぶりに与党の座を保守党と自民党の連立政権に明け渡した。
野党転落後 (2010年 - 現在)

その後エド・ミリバンドが兄弟対決を制して新党首に選ばれ、党の再建に当たることとなった。ミリバンドはブラウン寄りの党内左派であり、組合重視の姿勢を示している。これにより、労働党・保守党・自民党の主要3党の党首すべてが40代という若返りを実現した。

2012年5月の統一地方選挙では、首都ロンドンの市長選挙は落としたものの、リバプールでの初の市長選挙で圧勝した。181議会における議員選挙でも地滑り的な大勝を収めた。

政権奪還を賭けた2015年イギリス総選挙では選挙前の世論調査では保守党と支持率が拮抗していたが[16]、選挙結果は地盤だったスコットランドの議席の殆どをスコットランド国民党(SNP)に奪われるなどしたために26議席を失って敗北した。勝てるはずの選挙を落としたミリバンドは、敗北の責任を取って党首を辞任すると表明した[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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