加藤高明
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大隈内閣の外交政策を一手に握る加藤に対して、立憲政友会の西園寺公望や原敬からは殊に対華21ヶ条要求への批判が強まった。

総選挙のたびに議席数を減らすなど加藤の党運営は平坦な道のりではなく、「苦節十年」と呼ばれる長期の在野生活を送った[9]。1922年高橋内閣総辞職の際に、後継総理の候補として「加藤友三郎が辞退した場合には、加藤高明を後継総理とする」案(加藤にあらずんば加藤)が元老会議で出されたことがあったが、これを知った立憲政友会は高明の組閣を阻止するため、辞退を決意していた友三郎を説得して翻意させ加藤友三郎内閣が成立したため政権獲得は1924年まで遠ざかる。
組閣以降[ソースを編集]帝都復興審議会委員渋沢栄一(左)、伊東巳代治(中央)と和服を着用した加藤

第二次護憲運動の高まりを受けた第15回衆議院議員総選挙護憲三派勢力が圧勝したため、清浦奎吾首相は辞意を表明し清浦内閣は退陣、大命降下を受けた加藤は大正13年(1924年)6月11日、立憲政友会、憲政会、革新倶楽部からなる護憲三派内閣を率いる内閣総理大臣となった。加藤は初の東京帝国大学出身の首相である。選挙公約であった普通選挙法を成立させ[10]日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、成果をあげた。しかし一方では共産党対策から治安維持法を成立させた[11]。この法規は後に言論弾圧の口実として使われ、特に戦時中に乱用されたとして治安維持法反対派からは強く批判されている。一方で治安維持法擁護派からはこの時期に労働運動が多発しており、またロシア革命の影響から普通選挙法によって共産主義が爆発的に広がる可能性もあったことから出されたもので[12]、治安維持法とのセットでないと普通選挙法案が貴族院で否決された可能性も高く、当時の各国も同様の法規を有していたことからやむを得ぬものであったとする意見もある。また、宇垣軍縮に見られるような陸軍の軍縮を進める一方で陸軍現役将校学校配属令を公布し、中等学校以上における学校教練を創設した。

加藤高明内閣は高橋是清若槻禮次郎濱口雄幸幣原喜重郎犬養毅を擁し、以降7代、衆議院の多数政党が内閣を交互に組織する「憲政の常道」が確立され、この慣習は五・一五事件まで続いた。
晩年[ソースを編集]晩年の加藤

翌年、憲政会と政友会のつなぎ役であった司法大臣・横田千之助が急死すると、政友会と憲政会は内紛を起こして護憲三派連立は崩れて加藤内閣は崩壊する。だが、元老の西園寺公望は自らが次の政友会内閣の首班に期待していた横田が没するとたちまちその遺志を踏みにじって護憲三派を崩壊させた政友会に失望して、個人的には好意的ではなかった加藤に政権を続投させる決断をした。これを受けて大正14年(1925年8月2日、加藤の憲政会単独内閣となる[注釈 3][注釈 4]

1926年1月22日に、加藤は帝国議会内で肺炎をこじらせて倒れ、そのまま6日後に66歳にて死去。現役首相の病死は加藤高明の他に加藤友三郎大平正芳小渕恵三のみである。この年加藤はノーベル賞推薦人として渋沢栄一ノーベル平和賞に推薦した[13]。墓所は青山霊園(1ロ8-1)。

加藤の没後、若槻禮次郎が内閣総理大臣臨時代理を経て組閣の大命を受けて第1次若槻内閣を組閣した。同年1926年末には大正天皇が崩御し、昭和へと時代が移り変わった。鶴舞公園内に建っていた加藤高明像(朝倉文夫作)

名古屋市昭和区鶴舞公園内には、普通選挙法成立を記念して建てられた普選記念壇がある。同園内には加藤の銅像も建っていた(1928年建立)が太平洋戦争の金属供出令により取り壊され、現在は台座のみが残る。
人物[ソースを編集]

西園寺公望は加藤のことを大久保利通木戸孝允伊藤博文とならべて「一角の人物であった」と述べるなど高く評価していた[14]

駐英大使として在任中であった明治末期に、自らの見聞をもとに英国の政治・経済・社会を解説・論評した『滞英偶感』を時事新報に連載した。匿名でのレポートであった。

家族[ソースを編集]

妻は岩崎弥太郎の長女・春路[15][16][17]。春路との間に3人の子供がいる[17]。長女・悦子は岡部長景の妻[17][18]。長男は早世[17]


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