加藤清正
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その一方で、清正は頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りに随行しており、家康としても徳川・豊臣の和解のために清正の役割に期待する側面もあったとみられる[3]

同年5月、熊本への帰国途中の船内で発病し、6月24日、死去した[22]。50歳[22]。死因には諸説あるが(後述)、脳溢血によるものと考える説が有力である[22]
死後

嗣子・忠広が跡を継いだが、寛永9年(1632年)6月1日に改易された[22]。忠広は堪忍分1万石を与えられて出羽庄内藩にお預けとなった。理由は諸説ある。

加藤家の家系は、かつて庄内藩領であった山形県酒田市大字新堀などで続いている。忠広は清正の遺骨を庄内丸岡に持ち込み、曹洞宗天澤寺本堂の北に墓碑を建立した。この墓は昭和24年(1949年)に発掘され、初期弓野焼の壷に納めた遺骨とが発見された[23]

新たに肥後熊本54万石の領主となった細川忠利は、清正の霊位を先頭にかざして肥後に入部し、熊本城に入る際「あなたの城地をお預かりします」と言って浄池廟の方角に向かって遥拝し、清正を敬う態度を示した。本妙寺は細川氏の菩提寺(泰勝寺・妙解寺)並の寺領を寄進される。享保20年(1735年)の百二十五遠忌の頃になると、毎月23日の清正命日逮夜には参詣通夜し、所願成就を祈願する者が急増する。6月23日の祥当逮夜には、大勢の参拝客を目当てに参道に仮設店舗や茶店が出る賑わいを見せ、現在の頓写会の原形が姿を現している。かつて「日乗様」「日乗居士」と呼ばれていた清正は、このころには「清正公」「清正神祇」と尊称されるようになって神格化が進み、本妙寺・浄池廟は「せいしょこ(清正公)さん」として、民衆の清正信仰の中心的存在となった。
人物清正の重臣・大木舎人が写生し、文久年間にさらに模写されたという肖像

藤堂高虎黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城名護屋城蔚山倭城江戸城名古屋城など数々の城の築城に携わった。また飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。この結果、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年以上経った現在も実用として使われている遺構が少なくない。このとき清正は莫大な人手をまかなうため男女の別なく動員したが、給金を払い必要以上の労役を課すことなく、事業の多くを農閑期に行うことによって農事に割く時間を確保したという。

武将としては福島正則とともに豊臣氏配下の有力の武将の一人で、正則とは親しかったとされる。石田三成とは豊臣政権下で文治派武断派が形成されるにつれて関係が悪化し、小西行長とは朝鮮出兵の際の意見対立や互いの領地が隣り合わせであったため常に境界線をめぐって争ったともいわれている。
清正が寄進した池上本門寺の石段「此経難持坂」

熱心な日蓮宗の信徒であり、領内に本妙寺をはじめとする日蓮宗の寺を数多く創設した。また、日蓮入滅の霊場である池上本門寺の祖師堂や石段を寄進建立した。

いわゆる「三振法(清正当時の呼称ではない)」を取り入れたことで知られる。これは武士のみが対象であったが、軽微な罪や式典で粗相を3回起こすと切腹を申し付けられるものであった。

熊本県(旧熊本藩)においては、「清正公(せいしょこ)さん」として現在も種々の史跡や祭りなどに取りあげられているが、当時の肥後人の清正への崇敬は強かった。これはほとんどの大名が単に統治しただけであったのとは対照的に、農業政策で実績を上げたことによる。

清正が治水や農業振興に力を尽くしたものの、一方で朝鮮出兵の費用を賄うための重税や動員は百姓への大きな負担となっていた。また、国境近くや要地に支城を設けて重臣達を城主にして独自の所領・軍団経営を認めさせた「備(そなえ)」という制度は敵の侵入を防ぐのには有効であったが重臣達の権力を強め、また体制を維持するための財政的負担も大きかった。清正もこの問題点を認識してはいたが、その後の関ヶ原の戦いや天下普請によって解消する機会を逸したまま没してしまった。このため、領国は疲弊することになり、また幼くして後を継いだ嫡男・忠広の下で権力を持った重臣達が争うことにもなり、結果的には加藤家改易の遠因ともなった[3][4]

武具・装備一式

長烏帽子形兜 - 清正は身の丈六尺三寸(約190cm)の大男と伝えられ、長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)という
変わり兜を被ることでさらに背が高く見えたという。清正が蔚山城の戦いで被ったと伝わる。浮世絵武者絵では、この兜と蛇の目紋が清正のイメージとして定着している。紀州徳川家に伝来し、現在は徳川美術館が所蔵[24]

片鎌槍 - 所持する十文字三日月槍の片刃が、天草一揆討伐戦、または朝鮮の役での虎退治で噛み折られてしまったが、研磨して片鎌槍と称して愛用を続けたという伝説があるが、実際は当初から片方が欠けている。この愛用の槍は八十姫(瑤林院)の徳川頼宣への輿入れ道具として持ち込まれ紀州徳川家に伝えられた。現在は東京国立博物館所蔵。

題目旗 - 熱心な法華宗信者であったため、白地に朱色で題目(南無妙法蓮華経)を書いた旗を戦場で翻らせた。

帝釈栗毛(たいしゃくくりげ) - 清正の愛馬。帝釈とは仏教の守護神帝釈天のことで、体高は六尺三寸あったという巨大な馬。

金小札色々威片肌脱胴具足(きんこざねいろいろおどしかたはだぬぎどうぐそく) - あくまでも「伝」加藤清正所用の甲冑で、頭には熊毛をあしらい、胸部と背部に片肌を脱いであばら骨の浮いた肉色の体を覗かせた具足で、屍を思わせる恐ろしげなデザインで有名。東京国立博物館所蔵。
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