加藤清正
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

また、江戸幕府の成立後、豊臣氏がかつて日本各地に設置した蔵入地は解体される傾向にあったが、清正が統治する肥後国の蔵入地は依然として残されて年貢が大坂城の豊臣秀頼の下に送付されていた模様で、清正の死の翌年に毛利氏が清正死後の熊本藩を内偵した記録である『肥後熊本世間取沙汰聞書』によれば同藩には(豊臣氏)蔵入地3万石が設置されたままであることが記されている[3]

一方、熊本藩内では熊本城麦島城の改築、旧加藤・小西両領の境界地帯を中心とした支城の廃止などが行われ、最終的には熊本城と7つの支城に整理された[21]名古屋城大天守石垣内で、「加藤肥後守内小代下総」(加藤肥後守の家臣、小代下総守(小代親泰))と刻まれた石

慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張名古屋城の普請に協力した。

慶長16年(1611年)3月、二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した。しかし、ここで重要なのは清正は秀頼の護衛役ではなく、既に次女・八十姫との婚約が成立していた家康の十男・徳川頼宣の護衛役であり、徳川氏の家臣として会見に臨んだことである。その一方で、清正は頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りに随行しており、家康としても徳川・豊臣の和解のために清正の役割に期待する側面もあったとみられる[3]

同年5月、熊本への帰国途中の船内で発病し、6月24日、死去した[22]。50歳[22]。死因には諸説あるが(後述)、脳溢血によるものと考える説が有力である[22]
死後

嗣子・忠広が跡を継いだが、寛永9年(1632年)6月1日に改易された[22]。忠広は堪忍分1万石を与えられて出羽庄内藩にお預けとなった。理由は諸説ある。

加藤家の家系は、かつて庄内藩領であった山形県酒田市大字新堀などで続いている。忠広は清正の遺骨を庄内丸岡に持ち込み、曹洞宗天澤寺本堂の北に墓碑を建立した。この墓は昭和24年(1949年)に発掘され、初期弓野焼の壷に納めた遺骨とが発見された[23]

新たに肥後熊本54万石の領主となった細川忠利は、清正の霊位を先頭にかざして肥後に入部し、熊本城に入る際「あなたの城地をお預かりします」と言って浄池廟の方角に向かって遥拝し、清正を敬う態度を示した。本妙寺は細川氏の菩提寺(泰勝寺・妙解寺)並の寺領を寄進される。享保20年(1735年)の百二十五遠忌の頃になると、毎月23日の清正命日逮夜には参詣通夜し、所願成就を祈願する者が急増する。6月23日の祥当逮夜には、大勢の参拝客を目当てに参道に仮設店舗や茶店が出る賑わいを見せ、現在の頓写会の原形が姿を現している。かつて「日乗様」「日乗居士」と呼ばれていた清正は、このころには「清正公」「清正神祇」と尊称されるようになって神格化が進み、本妙寺・浄池廟は「せいしょこ(清正公)さん」として、民衆の清正信仰の中心的存在となった。
人物清正の重臣・大木舎人が写生し、文久年間にさらに模写されたという肖像

藤堂高虎黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城名護屋城蔚山倭城江戸城名古屋城など数々の城の築城に携わった。また飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。この結果、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年以上経った現在も実用として使われている遺構が少なくない。このとき清正は莫大な人手をまかなうため男女の別なく動員したが、給金を払い必要以上の労役を課すことなく、事業の多くを農閑期に行うことによって農事に割く時間を確保したという。

武将としては福島正則とともに豊臣氏配下の有力の武将の一人で、正則とは親しかったとされる。石田三成とは豊臣政権下で文治派武断派が形成されるにつれて関係が悪化し、小西行長とは朝鮮出兵の際の意見対立や互いの領地が隣り合わせであったため常に境界線をめぐって争ったともいわれている。
清正が寄進した池上本門寺の石段「此経難持坂」

熱心な日蓮宗の信徒であり、領内に本妙寺をはじめとする日蓮宗の寺を数多く創設した。また、日蓮入滅の霊場である池上本門寺の祖師堂や石段を寄進建立した。

いわゆる「三振法(清正当時の呼称ではない)」を取り入れたことで知られる。これは武士のみが対象であったが、軽微な罪や式典で粗相を3回起こすと切腹を申し付けられるものであった。

熊本県(旧熊本藩)においては、「清正公(せいしょこ)さん」として現在も種々の史跡や祭りなどに取りあげられているが、当時の肥後人の清正への崇敬は強かった。これはほとんどの大名が単に統治しただけであったのとは対照的に、農業政策で実績を上げたことによる。

清正が治水や農業振興に力を尽くしたものの、一方で朝鮮出兵の費用を賄うための重税や動員は百姓への大きな負担となっていた。また、国境近くや要地に支城を設けて重臣達を城主にして独自の所領・軍団経営を認めさせた「備(そなえ)」という制度は敵の侵入を防ぐのには有効であったが重臣達の権力を強め、また体制を維持するための財政的負担も大きかった。清正もこの問題点を認識してはいたが、その後の関ヶ原の戦いや天下普請によって解消する機会を逸したまま没してしまった。このため、領国は疲弊することになり、また幼くして後を継いだ嫡男・忠広の下で権力を持った重臣達が争うことにもなり、結果的には加藤家改易の遠因ともなった[3][4]

武具・装備一式

長烏帽子形兜 - 清正は身の丈六尺三寸(約190cm)の大男と伝えられ、長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)という
変わり兜を被ることでさらに背が高く見えたという。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:99 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef