加藤清正
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記録で確認できるだけでも豊臣氏の播磨国や和泉国にあった蔵入地代官、九州平定後の上使としての戦後処理、尾藤知宣が改易されて闕所地となった讃岐国に新領主に決まっていた生駒親正が入国するまで代官として臨時に統治業務にあたる仕事などが知られている[2][注 4]。また、和泉国の代官を務めたことで、堺の商人との関係を深めることになった[3]。なお、清正が肥後半国を与えられた理由としては、九州平定が終わった直後に肥後国人一揆が発生し、不安定な政治情勢が続いていた肥後の情勢を鑑み、長年代官を務め、九州平定・肥後国人一揆後に上使として派遣されて現地に通じている清正に肥後半国を託したと考えられている[3][2][注 5]
文禄・慶長の役加藤清正進路(青線)加藤清正朝鮮陣書状(1594年加藤清正の虎退治(月岡芳年画)加藤清正の馬印と旗印清正が築城した西生浦倭城の本丸跡

文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。

出兵前年の天正19年(1591年)、清正は領国の家老2名に対して36か条に及ぶ出兵の準備に関する指示を出している[5]。肥後一国を与えられる前は170人程度の軍勢を指揮するに過ぎなかった清正が、1万人単位の兵を率いる立場になってから初めての大規模な戦いであった。清正の家臣の中には新参の家臣が多く、実際の戦闘や留守の領国でどこまでの働きをするのか未知数であった。しかも、九州諸大名には肥前国名護屋城の築城など、軍役以外の負担を課せられるなど、清正は重い課題を抱えたままの出陣となった[6]

文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂相良頼房などを傘下に置いた。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊とともに北上し、臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克?の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君順和君)を捕虜にした(咸鏡道経略(英語版))。だが、清正の本意は秀吉の意向が本国への進撃である以上、朝鮮半島の平定に時間をかけるべきではないという考え方で、日本側が取った八道分遣策には批判的であった[注 6]

清正の危惧通り、明軍の援軍を得た朝鮮軍の反撃を受けた一番隊や支援にかけつけた三番隊は苦戦をし、日本軍の進撃は停止してしまう。一方、明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった二番隊は大きな抵抗を受けずに侵攻を続けたため、一番隊や三番隊の苦戦を知る日本本国では「清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか」と疑惑を持たれることになった。当然、清正はこうした流れに反発し、それが一番隊を率いていた小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信の発端になったとみられている(反対に、この時期以前に清正と彼らの不仲を裏付ける一次史料は存在していない)[6]

さらに清正は朝鮮の国境である豆満江を越えて、満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻した。しかし当地は明への侵攻路から外れている上に得るものが乏しいため、早々に朝鮮領内へ引き揚げ、咸鏡北道を帰順した現地朝鮮人の統治域とし、日本軍は吉州以南に布陣した。日本軍の去った咸鏡北道では朝鮮人の義兵が決起して吉州を攻撃したが、これを撃破する。詳細は「加藤清正のオランカイ侵攻」を参照

その後、明軍が現れた京畿道方面に配置転換が命じられ、咸鏡道を引き払い漢城に入った。文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城の戦いで加藤軍は北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。

明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件を伝えた。だが秀吉の条件は明にも朝鮮にも到底受け入れられるものではなかった。このため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立し、行長は清正が講和の邪魔になるとみて、彼が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、独断専行した罪などで秀吉に訴えた。この時、戦争継続は不利と考える石田三成が行長を支持したことなどから、清正はに戻され謹慎となる。増田長盛が三成と和解させようとしたが、清正は断っている。しかし、この帰国に関しては講和進展と明使の来日に伴う軍の一部撤退による帰国であるとする説も出されている[6]。その後、慶長伏見地震の際、秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許されたとされる「地震加藤」の逸話があるが、この話も清正が地震の2日後に領国に送った書状[8]の中に秀吉一家の無事とともに、「(自分が無事だったのは)伏見の屋敷が完成していなかったから」「(地震の為に)京から胡麻を取り寄せて領国に送るのが遅くなる」とあることから、清正がいたのは(伏見でも京でもなく)大坂であったことが推定され、清正が大坂から伏見の秀吉の許に駆けつけた可能性はあっても、真っ先に駆けつけたとする逸話は史実ではなかったことが明らかとなっている[6]

一方、名護屋城の築城以来、清正領国を含めた九州各地は、朝鮮での軍役やその軍勢を維持するための物資調達で多大の負担を強いられ、不穏な動きを見せ始めていた。文禄元年(1592年)6月に島津氏の家臣である梅北国兼が清正の支城の1つ佐敷城を奪う梅北一揆が発生する。


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