加藤清正
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翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石[注 3]の所領を与えられた。

天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下主計頭に叙任する。

天正14年(1586年)、秀吉の九州平定に従い、天正16年(1588年)に肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5,000石を与えられ、隈本城に入り、後の天正19年(1591年)頃よりこれに改修を加えて熊本城とした。

清正は賤ヶ岳の戦い以降、小牧・長久手の戦い四国征伐、九州平定に参加し、ほとんどが後備として秀吉の周囲を守るか後方支援に当たるかしていた[3][2]。例えば、小牧・長久手の戦いの時に作成されたとみられる陣立書が残されているが、そこに記された加藤虎介(清正)の動員兵力はわずか150名であった[4]。『清正記』などの清正の伝記にはいくつもの武功に関する記載と秀吉からの感状の引用が記されているが、それらは創作の可能性がある[2]。当時の清正が秀吉から期待されていたのは、豊臣政権の財務官僚としての役割であった。記録で確認できるだけでも豊臣氏の播磨国や和泉国にあった蔵入地代官、九州平定後の上使としての戦後処理、尾藤知宣が改易されて闕所地となった讃岐国に新領主に決まっていた生駒親正が入国するまで代官として臨時に統治業務にあたる仕事などが知られている[2][注 4]。また、和泉国の代官を務めたことで、堺の商人との関係を深めることになった[3]。なお、清正が肥後半国を与えられた理由としては、九州平定が終わった直後に肥後国人一揆が発生し、不安定な政治情勢が続いていた肥後の情勢を鑑み、長年代官を務め、九州平定・肥後国人一揆後に上使として派遣されて現地に通じている清正に肥後半国を託したと考えられている[3][2][注 5]
文禄・慶長の役加藤清正進路(青線)加藤清正朝鮮陣書状(1594年加藤清正の虎退治(月岡芳年画)加藤清正の馬印と旗印清正が築城した西生浦倭城の本丸跡

文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。

出兵前年の天正19年(1591年)、清正は領国の家老2名に対して36か条に及ぶ出兵の準備に関する指示を出している[5]。肥後一国を与えられる前は170人程度の軍勢を指揮するに過ぎなかった清正が、1万人単位の兵を率いる立場になってから初めての大規模な戦いであった。清正の家臣の中には新参の家臣が多く、実際の戦闘や留守の領国でどこまでの働きをするのか未知数であった。しかも、九州諸大名には肥前国名護屋城の築城など、軍役以外の負担を課せられるなど、清正は重い課題を抱えたままの出陣となった[6]

文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂相良頼房などを傘下に置いた。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊とともに北上し、臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克?の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君順和君)を捕虜にした(咸鏡道経略(英語版))。だが、清正の本意は秀吉の意向が本国への進撃である以上、朝鮮半島の平定に時間をかけるべきではないという考え方で、日本側が取った八道分遣策には批判的であった[注 6]

清正の危惧通り、明軍の援軍を得た朝鮮軍の反撃を受けた一番隊や支援にかけつけた三番隊は苦戦をし、日本軍の進撃は停止してしまう。一方、明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった二番隊は大きな抵抗を受けずに侵攻を続けたため、一番隊や三番隊の苦戦を知る日本本国では「清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか」と疑惑を持たれることになった。当然、清正はこうした流れに反発し、それが一番隊を率いていた小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信の発端になったとみられている(反対に、この時期以前に清正と彼らの不仲を裏付ける一次史料は存在していない)[6]

さらに清正は朝鮮の国境である豆満江を越えて、満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻した。しかし当地は明への侵攻路から外れている上に得るものが乏しいため、早々に朝鮮領内へ引き揚げ、咸鏡北道を帰順した現地朝鮮人の統治域とし、日本軍は吉州以南に布陣した。日本軍の去った咸鏡北道では朝鮮人の義兵が決起して吉州を攻撃したが、これを撃破する。詳細は「加藤清正のオランカイ侵攻」を参照

その後、明軍が現れた京畿道方面に配置転換が命じられ、咸鏡道を引き払い漢城に入った。文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城の戦いで加藤軍は北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。


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