加藤清正
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慶長12年(1607年)に兄・山崎家盛の家臣神崎清兵衛と争いになり死去した[33]

女子:桑原平八郎室(生没年不詳) - 出自は不詳。家臣・桑原平八郎に嫁いだとされ、平八郎はそれを機に「加藤清兵衛」と称したと伝えられている。「加藤清正十六将」の1人。しかし、夫は朝鮮出兵後に離縁して加藤家を出奔、蒲生秀行に仕えて本山安政(豊前守)と改名している。


家臣加藤清正の家臣団の一覧
加藤清正十六将

飯田直景 - 日本槍柱七本、加藤三傑。

森本一久 - 加藤三傑。

庄林一心 - 加藤三傑。元仙石秀久家臣であり九州征伐後に仙石秀久が改易され、加藤清正の肥後入国後に加藤家に仕え、軍事的に秀でており天草一揆や朝鮮出兵で功績を残し、加藤清正が軍事面で最も信頼を寄せていた人物。禄高8,000石。

加藤直正 - 元の名は桑原平八郎、清八とも。豊臣秀吉の上意により加藤清兵衛直正と名を改めた。肥後?嶽城代。『絵本太閤記』によると、朝鮮出兵で、蔚山倭城に押し寄せた明の大軍を鉄砲で撃退する、智勇兼備。のち清正と不仲、一時寺沢広高に属した後、蒲生秀行に仕えて、本山安政(豊前守・道寒斎)と名を改めた。その後、蒲生忠郷の時代には会津藩の仕置(家老)にまで昇進、寛永3年(1626年)に死去した[34]。民を愛しみ恵むので士民に愛されたと伝わる。禄高8,500石。

加藤重次 - 佐敷城代、大和守。元六角家臣。六角家の滅亡後、富山城主佐々成政に仕えた。佐々成政が隈本城主として肥後国に入封すると、実弟井上吉弘とともに肥後に入る。佐々成政が肥後国人一揆への不手際により自刃されると、加藤清正に仕えた。「文禄の役」でも戦功を挙げた。「慶長の役」では蔚山城に籠城、乏しい食料の中、明の大軍を撃破した。加藤清正の病没後は、加藤忠広を支える大老五人衆のひとりとなった。

加藤可重 - 通称右馬允。加藤清正の遠縁である片岡清左衛門の嫡男で、その縁で加藤清正に仕えた。加藤清正の肥後国入封後は肥後内牧城代を務めた。1592年「文禄の役」で嫡男加藤重正が討死した。次男加藤正方が幼いため、甥を養子にした。

斑鳩平次 - 元上杉家臣。実名は信好、異名は狸平次。数多く逸話が伝わるの豪傑。「文禄、慶長の役」で武功を挙げ3,000石を領した。

龍造寺又八

貴田孫兵衛 - 諱は統治とも。豊前出身の豪傑。佐竹勘兵衛の男。別名毛谷村六助。怪力と俊足の持ち主。「文禄、慶長の役」では鉄炮衆40名余りを率いて参陣した。足の速さを見込まれ、漢城陥落の報を名護屋に届けるための使者となり、わずか二週間で名護屋まで達した。900石を領した。

吉村氏吉 - 吉(橘)左衛門。尾張国松木の出身で、当初は織田信雄に仕えた。信雄の改易後は加藤清正に仕えて朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでの宇土城攻略に活躍した。

山内甚三郎 - 加藤清正に仕えて天草衆一揆鎮圧に功績を挙げ、朝鮮の役にも参加した。

九鬼広隆 - 四郎兵衛。九鬼嘉隆の甥。

天野助左衛門

木村又蔵 - 罷免された後も忠義を尽くし続けた人物。

斎藤利宗 - 斎藤利三の子。

赤星親武 - 赤星統家の子とされる。

その他

並川宗為
- 金右衛門、志摩守。並河易家の嫡男。織田信長の首をとったと伝わる。家老を務め、加藤家五家老のひとり。軍事的(一番備頭)にも政治的にも地位が高い。禄高10,297石

三宅角左衛門 - 飯田直景とともに加藤家の両角と呼ばれた豪傑。朝鮮出兵や宇土城攻めにて数々の功績を残す。小西家領地接収後は麦島城代に任命された。また飯田直景とともに普請奉行にも任命され、本妙寺池廟の建設及び熊本城や名古屋城の築城に功績を残した。禄高3,674石。

大木兼能 - 大木道玄の男。官途は土佐守。通称弥介。父大木道玄は尾張斯波家に属していた。1571年「伊勢長島の一向一揆」に参陣した。織田信長の庶兄津田信広らを討取る戦功を挙げた。長島の一向一揆が滅びた後、佐々成政に属して3,000石を領し先鋒の隊長となった。佐々成政に肥後が与えられたさい佐々成政にしたがって肥後国に入国した。佐々成政没後、加藤清正に仕えた3,000石を領した。また理財の能力にもたけていて蔵元奉行を担当し、加藤家の大阪屋敷留守居兼倉米販売を取り仕切った。1611年、加藤清正が病没すると殉死した。

井上勘兵衛(井上吉弘)-加藤重次実弟、佐敷城居留守役として梅北の乱を鎮圧(梅北一揆始末覚)後、朝鮮出兵で活躍。後に清正の側役。 

井上正忠(井上大九郎)-加藤清正二十将にも入れる、 朝鮮出兵などに活躍した。

長尾善政 - 豊前守。岩尾城代。

加藤正方 - 加藤可重の次男。通称右馬充。加藤家二十将のひとり。兄が討死したため、家督は従兄が継ぐが、のちにその養子となり家督を相続した。肥後内牧城代。百八騎持。加藤清正の病没後、加藤忠広の家督相続を嘆願した。枝連衆の加藤正次との御家騒動を引起した。家臣西山宗因は俳句の祖として知られる。治水、干拓などで城下を発展させたが、加藤忠広改易により失領した。

加藤正直 - 万兵衛。加藤正方の男。室は加藤清正の娘。長尾善政没後、岩尾城代。1612年、幕命により内牧城代。幕府旗本として700石を領した。

加藤正次 - 清正のいとこ婿。美作守。肥後筒ヶ嶽城代。加藤忠広の五家老のひとり。禄高8,500石。


加藤清重 - 喜左衛門。清正の伯父。

森本一友 - 森本一久の長男。武勇に優れ、加藤家二十四将に数えられるほか「天草一揆鎮圧」にも活躍した。加藤家改易後、細川家に仕え5,100石を領した。

森本一房 - 森本一久の次男。

下川元宣 - 下川元綱の次男。通称又左衛門。羽柴秀吉の馬廻り衆であったが後に加藤清正に仕えて勘定役の仕事をした。戦場の武者活躍は少ないが肥後入国後は隈本城留守居として領内統治の責任者として内政を司った。加藤清正の病没後は五大老のひとりとして加藤忠広を支えた。

下川兵太夫 - 文禄の役に参加し、「清正高麗陣覚書」を記す。

曾根孫六

小野鎮幸(小野和泉) - 旧立花氏重臣。日本槍柱七本の筆頭。

小代親泰 - 肥後国人、小代親忠の男。朝鮮出兵で活躍。名古屋城築城も石積の才を発揮した。

梶原景俊 - 船手奉行。通称助兵衛。別名梶川才兵衛。1600年「関ヶ原の役」では、大阪屋敷より清浄院を大木兼能とともに救出した。「宇土城の戦い」では、瓢箪淵に船を乗り入れも、籠城側の銃撃により討死した。

荒川清澄 - 熊蔵。「鬼清澄」と呼ばれるほど怪力無双の豪傑という。

南条元宅 - 関ヶ原合戦時には小西家重臣として宇土城を守備し、三宅角左衛門と鑓を交え奮戦した。小西行長没落後、加藤清正の配慮により加藤家家臣となる。
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