加藤清正
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日本手話における「加藤(カトウ)」の手話単語の1つに「両手で槍を持って前に突き出す」動作を真似たものがあるが、これは加藤清正の虎退治の故事にちなんだものといわれ、長槍がカトウをイメージさせることに由来するとされている[28][注 7]
死因清正公像(本妙寺所蔵品、模写)

清正の死因は『当代記』の2年後に唐瘡(梅毒)で死んだ浅野幸長の項に、彼と同様に好色故の「虚ノ病」(腎虚(花柳病)か)とされている。一方で家康またはその一派による毒殺説もある。清正・幸長の両名が同じ病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測も流れた。暗殺説の中でも二条城会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺など様々にある。根強い毒殺説を題材としたのが池波正太郎の『火の国の城』である。

また死因は瘡(癩病、ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正を祀る加藤神社に平癒を願う参詣者が多かったという。ちなみに熊本市の本妙寺は明治20年代まで梅毒やハンセン病で不具になってしまった患者達で混雑することが珍しくなかった。参拝客達に哀れみを乞い、この寺に墓がある清正を一種の神と崇め、病を治して貰おうという信仰があったからである(ただし全国の寺社でも同様の現象が起こっていた)。日本のハンセン病の歴史において大きな足跡を残したひとり、イングランド国教会の伝道師だったハンナ・リデル(女性)はこの寺で見た患者達の群を見て甚大なショックを受け、その生涯を彼らの救済に傾けた。ただし、本妙寺は日蓮宗の寺院であり、日蓮宗には元々「癩病(ハンセン氏病)は法華経を謗った報い」であるという考え方が存在し、法華経信仰とハンセン病平癒、そして熱心な日蓮宗信者とされる加藤清正が結びついたことに由来するという考えもあり、清正の死因とは結びつかないという説もある[29]

清正は熊本に帰る途中に発病し口がきけなくなり、健康は回復しなかった。遺言はなかった。赤尾口で荼毘に付され、そこには後に庵が建てられ静慶庵と名付けられた(九州森林管理局内に碑がある)[30]。本葬は10月13日、嫡子虎藤(忠広)の帰国後に日蓮宗京都本山本圀寺貫主である日桓の引導により厳修された。清正の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、現在の廟所内の清正公像の真下にあたるところに埋葬された[31]
系譜

父:
加藤清忠大永6年(1526年)‐ 永禄7年(1564年)) 通称・正左衛門、五郎助。斎藤道三に仕えたが、合戦で負傷し武士を辞め、刀鍛冶清兵衛のもとで鍛冶師として修行し、その娘である伊都を娶り、清正をもうける。38歳で死去。

母:聖林院(? ‐ 慶長5年(1600年)) 名は伊都。父は鍛冶屋清兵衛。天瑞院とは姉妹・従姉妹と伝わる。慶長5年(1600年)に亡くなり、妙永寺に葬られる。法名は聖林院殿天室日光大姉。

正室 - 山崎氏(生没年不詳)、山崎片家の娘。天正頃に清正に嫁したといわれ、一子・虎熊を儲けた。没年は文禄頃といわれる。なお清正の養子である百助は実弟にあたる[32]

長男:虎熊(生没年不詳)


継室 - 清浄院(1582年 - 1656年)、水野忠重の娘、徳川家康の養女。

次女:瑤林院(1601年 - 1666年) - 八十姫。徳川頼宣の正室。


側室:本覚院(? - 1626年) - 菊池武宗の娘。

次男:加藤忠正(1599年 - 1607年)


側室:浄光院(? - 1625年) - 赤星親武(太郎兵衛)の娘。

長女:本浄院(1598年 - 1627年) - あま姫。榊原康勝阿部政澄の正室。榊原家では「こや姫」。


側室:正応院(? - 1651年) - 玉目丹波守の娘。

三男:加藤忠広(1601年 - 1653年)


生母不明の子女

男子:貴田正勝(玄蕃) - 重臣貴田孫兵衛の長男とされるが、実は加藤清正の庶子であったとの記録がある。当初加藤家に1500石で仕え、加藤家改易ののち、摂津尼崎藩主の青山幸成に仕えた。なお、弟貴田政時(権内・角右衛門)は細川忠興忠利父子に500石で仕え、その子孫も細川家に仕えた。


養子

男子:百助(天正10年(1582年) - 慶長12年(1607年)) - 山崎片家の子。一時水俣城代を務めた。清正に実子が誕生した後に実家に戻る。清正の実子が生まれたら5万石を分知するという話があったが果たされなかった。慶長12年(1607年)に兄・山崎家盛の家臣神崎清兵衛と争いになり死去した[33]

女子:桑原平八郎室(生没年不詳) - 出自は不詳。家臣・桑原平八郎に嫁いだとされ、平八郎はそれを機に「加藤清兵衛」と称したと伝えられている。「加藤清正十六将」の1人。しかし、夫は朝鮮出兵後に離縁して加藤家を出奔、蒲生秀行に仕えて本山安政(豊前守)と改名している。


家臣加藤清正の家臣団の一覧
加藤清正十六将

飯田直景 - 日本槍柱七本、加藤三傑。

森本一久 - 加藤三傑。

庄林一心 - 加藤三傑。元仙石秀久家臣であり九州征伐後に仙石秀久が改易され、加藤清正の肥後入国後に加藤家に仕え、軍事的に秀でており天草一揆や朝鮮出兵で功績を残し、加藤清正が軍事面で最も信頼を寄せていた人物。禄高8,000石。

加藤直正 - 元の名は桑原平八郎、清八とも。豊臣秀吉の上意により加藤清兵衛直正と名を改めた。肥後?嶽城代。『絵本太閤記』によると、朝鮮出兵で、蔚山倭城に押し寄せた明の大軍を鉄砲で撃退する、智勇兼備。のち清正と不仲、一時寺沢広高に属した後、蒲生秀行に仕えて、本山安政(豊前守・道寒斎)と名を改めた。


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