加藤清正
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紀州徳川家に伝来し、現在は徳川美術館が所蔵[24]

片鎌槍 - 所持する十文字三日月槍の片刃が、天草一揆討伐戦、または朝鮮の役での虎退治で噛み折られてしまったが、研磨して片鎌槍と称して愛用を続けたという伝説があるが、実際は当初から片方が欠けている。この愛用の槍は八十姫(瑤林院)の徳川頼宣への輿入れ道具として持ち込まれ紀州徳川家に伝えられた。現在は東京国立博物館所蔵。

題目旗 - 熱心な法華宗信者であったため、白地に朱色で題目(南無妙法蓮華経)を書いた旗を戦場で翻らせた。

帝釈栗毛(たいしゃくくりげ) - 清正の愛馬。帝釈とは仏教の守護神帝釈天のことで、体高は六尺三寸あったという巨大な馬。

金小札色々威片肌脱胴具足(きんこざねいろいろおどしかたはだぬぎどうぐそく) - あくまでも「伝」加藤清正所用の甲冑で、頭には熊毛をあしらい、胸部と背部に片肌を脱いであばら骨の浮いた肉色の体を覗かせた具足で、屍を思わせる恐ろしげなデザインで有名。東京国立博物館所蔵。
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長烏帽子形兜

片鎌槍

金小札色々威片肌脱胴具足(肩脱二枚胴具足)

熊本での事業熊本城

清正が肥後国を治めていたのは、天正15年(1587年)から慶長16年(1611年)の期間だが、朝鮮出兵等もあって実際に熊本に居住していた期間は延べ15年程である。清正以前の肥後は、秀吉が九州平定後に「こんなに豊かな国は見たことがない」と言ったように、国人でも豊かに暮らせたため有力大名が現われず、国人が割拠する時代が続き、佐々成政でさえも収拾できず荒廃していた。そんな中、清正は得意とする治水等の土木技術による生産量の増強を推し進めた。これらは主に農閑期に進められ男女を問わず徴用されたが、これは一種の公共工事であり、給金も支払われたためみな喜んで協力したという。

「隈本(隅本とも)」を「熊本」に改称した理由は、隈本城の改修工事が落成した際に、清正が「『隅本』より『熊本』の方が勇ましかろう」と言ったとの伝承が伝わっている。

白川坪井川大改修」以前は白川と坪井川は現在の熊本市役所付近で合流し下通を貫いて今の白川に流れていたが、これを現在の流路に変更したのは清正である。熊本城築城の際、予定地の側に現代でいうところの都市河川である坪井川と阿蘇からの火山灰を含んだ白川が合流する様を見て、流路を分けて城に近い坪井川を内堀に、遠い白川を外堀とする河川改修を行った。また当時の技術においてさらに下流にある再合流地点に石塘を築き両河川を河口まで分流した。それは、そこよりも下流の地域まで氾濫から未然に防ごうとする設計だった。

熊本4大河川改修。白川坪井川の付替、緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遥拝堰、菊池川における各種改修と灌漑用水の整備。これにより広大な穀倉地帯が生まれた。

熊本平野八代平野玉名平野への干拓と堤防の整備。これにより海岸に近い地域にも広大な畑作地域が生まれた。

白川水系の主に熊本平野への灌漑事業における、非常に実験的な用水技術(馬場楠井手)等。当時としては先進的な測量・土木技術の賜物である。今日の農業用水確保はこの時代の遺構に頼る面が少なくない。白川流域かんがい用水群(井手用水・下井手用水・馬場楠井手用水・渡鹿用水)が2018年に、菊池のかんがい用水群(築地井手・原井手・今村井手・宝永隧道・古川兵戸井手)が2019年に国際かんがい排水委員会かんがい施設遺産に認定されている。

なお、現在の堀川加藤忠広が着工し、細川忠利の時代に完了した。白川と坪井川を結ぶ農業用水路である。
豊後支配

法心寺 (大分市) - 慶長6年(1601年)、清正が家臣・加藤平左衛門に命じて建立させた[25]開山は、熊本の本妙寺常林院の日栄上人[25]

逸話清正公社(愛知県津島市地震加藤(歌川芳虎画)論語猿(月岡芳年『芳年武者无類』より、明治時代)

子供のころからの竹馬の友として力士(森本一久)と才八(飯田直景)がいた。ある日、剣の試合をして勝ったものが主君になり、負けたものが家来になるという約束をした。清正が勝ち、その約束は守られ、二人は清正の両腕として信頼される主従関係を結び続けた。

清正が少年時代、上河原(津島市上河原)の叔父の家にいた時、盗賊が押し入った。叔父夫婦は縛られたが、清正は鬼の面を被ってつづらに隠れた。重みのあるつづらを財宝だと勘違いした盗賊たちは持ち去って松原に来たところで開けると、清正が飛び出してきたため鬼だと思い込み逃げ去った。現在、叔父の屋敷跡と伝えられる地に「清正公社」が建てられている。

口の中に拳を入れることができたという逸話がある。新選組局長・近藤勇も憧れていた清正にあやかり、真似をして拳を口に入れていたという。

平時でも常に腰に米3升と味噌、銀銭300文を入れていた。ある時、親友の福島正則が「それでは腰が重いだろう」と述べると、「わしだって軽くしたい。だが、わしがこうしていれば家臣も見習い、常に戦時の備えを怠らないだろう」と答えたという。


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