また、家康の会津征伐の発動に清正が強硬に反対したが、家康は同意せずに清正に対して立腹したとされている[17]。
こうした事情から関ヶ原の戦い当初は家康と疎遠となった清正が西軍につく事態も想定され、毛利輝元らによる説得工作が行われた。だが、清正は家康に懇願して大坂にいた家臣を会津征伐に出陣する家康の下に派遣しており、石田三成らの挙兵を知った家康はその家臣を肥後に帰して、清正の東軍加勢を認めた。その間にも清正は黒田如水と連絡を取って家康ら東軍に協力する約束を交わし、家康の書状を携えた家臣が帰国した8月後半から黒田軍とともに出陣、小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ、52万石(実質石高は79万石)の大名となる[16]。関ヶ原の戦い一年余の後に、替地充行状が多発されるようになり、戦時色を払拭し恒常的、安定的な領国体制の再編に向けて動き出していたことが窺える[18]。
慶長10年(1605年)、従五位上・侍従兼肥後守に叙任される。
慶長11年(1606年)、徳川四天王の一人榊原康政の嫡男・康勝に娘のあまを嫁がせた[3]。だが、この年に康政が急死して康勝が館林藩を継いだため、清正がその後見人として藩政をみた[20]。また、江戸幕府の成立後、豊臣氏がかつて日本各地に設置した蔵入地は解体される傾向にあったが、清正が統治する肥後国の蔵入地は依然として残されて年貢が大坂城の豊臣秀頼の下に送付されていた模様で、清正の死の翌年に毛利氏が清正死後の熊本藩を内偵した記録である『肥後熊本世間取沙汰聞書』によれば同藩には(豊臣氏)蔵入地3万石が設置されたままであることが記されている[3]。
一方、熊本藩内では熊本城と麦島城の改築、旧加藤・小西両領の境界地帯を中心とした支城の廃止などが行われ、最終的には熊本城と7つの支城に整理された[21]。名古屋城大天守石垣内で、「加藤肥後守内小代下総」(加藤肥後守の家臣、小代下総守(小代親泰))と刻まれた石
慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張名古屋城の普請に協力した。
慶長16年(1611年)3月、二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した。しかし、ここで重要なのは清正は秀頼の護衛役ではなく、既に次女・八十姫との婚約が成立していた家康の十男・徳川頼宣の護衛役であり、徳川氏の家臣として会見に臨んだことである。その一方で、清正は頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りに随行しており、家康としても徳川・豊臣の和解のために清正の役割に期待する側面もあったとみられる[3]。
同年5月、熊本への帰国途中の船内で発病し、6月24日、死去した[22]。50歳[22]。死因には諸説あるが(後述)、脳溢血によるものと考える説が有力である[22]。 嗣子・忠広が跡を継いだが、寛永9年(1632年)6月1日に改易された[22]。忠広は堪忍分1万石を与えられて出羽庄内藩にお預けとなった。理由は諸説ある。 加藤家の家系は、かつて庄内藩領であった山形県酒田市大字新堀などで続いている。忠広は清正の遺骨を庄内丸岡に持ち込み、曹洞宗天澤寺本堂の北に墓碑を建立した。この墓は昭和24年(1949年)に発掘され、初期弓野焼の壷に納めた遺骨と鎧が発見された[23]。 新たに肥後熊本54万石の領主となった細川忠利は、清正の霊位を先頭にかざして肥後に入部し、熊本城に入る際「あなたの城地をお預かりします」と言って浄池廟の方角に向かって遥拝し、清正を敬う態度を示した。本妙寺は細川氏の菩提寺(泰勝寺・妙解寺)並の寺領を寄進される。享保20年(1735年)の百二十五遠忌の頃になると、毎月23日の清正命日逮夜には参詣通夜し、所願成就を祈願する者が急増する。6月23日の祥当逮夜には、大勢の参拝客を目当てに参道に仮設店舗や茶店が出る賑わいを見せ、現在の頓写会の原形が姿を現している。かつて「日乗様」「日乗居士」と呼ばれていた清正は、このころには「清正公」「清正神祇」と尊称されるようになって神格化が進み、本妙寺・浄池廟は「せいしょこ(清正公)さん」として、民衆の清正信仰の中心的存在となった。
死後
人物清正の重臣・大木舎人が写生し、文久年間にさらに模写されたという肖像
藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。