加藤忠広
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嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだこと、駿河大納言事件に連座したこと、豊臣恩顧の大名だったこと、改易ありきの幕府の謀略などが挙げられていたが、研究の結果、所説は否定されることになる[11]

父・清正が残した課題が忠広の統治に大きな影響を与えたとする研究もある。加藤清正は新田開発や治水工事の逸話が知られている一方で、朝鮮出兵に対応するための動員体制が、その後も関ヶ原の戦い天下普請に対応するために継続された結果、百姓は度重なる動員や重税に悩まされて領国の疲弊につながった。支城主には大きな権限が与えられ、清正が没して幼少であった忠広が家督を継ぐと幕府が直接介入して彼らを抑制しようとしたが、その統制も困難になってきた。それが家中の対立を招き、藩政の停滞・改易につながったとされる[12]。また、清正の死と同時期に重臣の大木兼能の殉死や国元で清正を補佐していた下川又左衛門の病死が重なり、内政・外交の支柱が失われた脆弱な体制が忠広に引き継がれたことが牛方・馬方騒動が起きる要因となったとされる[13]
駿河大納言連座説の否定

忠長と忠広が特別な関係であった証拠は一次資料には見当たらず、秀忠の危篤の際も忠長は江戸入りすら認められなかった反面、忠広には将軍家から鮎酢や鶴が送られるなど交流が続けられている。また、忠長が改易になったのは加藤家改易の後であり時期的にも連座には当たらない[14]
改易ありきの幕府の謀略説の否定

光正の某書事件が発覚した後、幕府は慎重に関係者を取り調べており、大名間にも事件の経緯を知らせ、忠広・光正親子の言い分や徳川御三家の意見も聞いた上で改易を決定しており、最初から改易ありきではなかった[15]
豊臣恩顧の大名説の否定

親豊臣のイメージが強い加藤家であるが、大名として安定した地位を持てたのは清浄院との婚姻をきっかけとして徳川家康の婿になった後であり、豊臣時代のほうが大名としての立場は不安定であった。関ヶ原の戦いの後も家康が将軍になる前から天下普請を通じて忠勤していること、清正の長女本浄院榊原康勝及び次女瑤林院と家康の十男徳川頼宣の婚約、二条城会見でも徳川頼宣の岳父として参加を許され豊臣・徳川間のパイプ役を期待されるなど、徳川・豊臣の双方から頼りにされていたとされる[16]
改易の真相

光正の某書事件がきっかけとなり、忠広の統治能力のなさ(肥後の国政悪しく行跡乱れて)や乱行などの「諸事不作法」が幕府に知れ渡り、幕府に無断で側室法乗院と二人の子供を国元に連れ帰った(忠広が将軍家以外の者と縁戚関係を作った)武家諸法度第八条違反が重なって改易となった[17][18]。また、徳川家の血筋である正室崇法院(と長男・光正)を疎か[注 2]にし、側室法乗院(と二人の子供)を偏愛しているなど女性関係の問題(女子之儀)があったことも大きな要因とされる[5][6]。忠広・光正の行動がここまで乱れた原因として、忠広はお家騒動の牛方馬方騒動で改易にならなかったことに起因する油断[19]、光正は秀忠の外孫という身位の高さから出た甘えなどから、事の重大さを考えない某書事件を引き起こすことになったとされる[20]
子孫

改易の過程も相まってか、正室の崇法院は忠広の配流に同行しなかった。

嫡男の光広は飛騨高山藩主・金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され、天性寺に蟄居したが、配所にて過ごすこと1年後の寛永10年7月16日(1633年)に病死した。これには自刃説、毒殺説もある。

次男の正良は藤枝姓を名乗り、母である忠広の側室・法乗院と真田氏へ預けられていたが、父の後を追って自刃した。これにより加藤氏の後継者がなくなり、領地は収公された。娘の献珠院は忠広の死から6年後に許され、叔母の瑤林院(忠広の姉、徳川頼宣正室)のはからいで旗本阿倍正之の五男・正重に嫁したが、約3年後、正重が家督を相続直後に32歳で死去した。正良の死を以て加藤家は正式には断絶したが、忠広の死の際に庄内藩に提出された覚書には、忠広・正応院の合葬願いの他にも「忠広の遺物を沼田にいる遺児男子一人、女子一人にやってほしい」と請願されており証明は困難ではあるが、忠広に子孫が続いた可能性は容認できるとされる[21]

忠広は丸岡において2子を儲けた(熊太郎光秋、女子某)と言われているが、公にはできなかった。子孫は5000石相当の大庄屋・加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、明治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴している。しかし、この家系を最後に継いだ加藤セチ(1893年 - 1989年、日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号として知られる)の死去により、その本家は山形に、筆頭分家の加藤与忽左衛門家を始めとするその他の子孫は、山形県を中心として全国各地で家系を伝えた[22]
逸話

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出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2012年4月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2012年4月)



父の清正と違って暗愚だったという。ある夜、老臣の飯田直景を呼んで「わしは力を持ちたいと思う。


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