加藤剛
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戦争反対の一心で俳優を続けてきた[18]

高校時代、実家でチェーホフの戯曲を読んで俳優を志した[18]

映画『砂の器』に出演した際、後に芸能レポーターとなった石川敏男が「僕は当時、宣伝部の助手だったので、宣伝のキャンペーンをお願いすることが多かったんです。10歳も年下の僕に対して、何でも“はい、はい”と聞いてくれましたね。決してイヤだとは言いませんでした。どんなに忙しくても、きちんと人の話を聞く方でしたよ」と語っている[19]

家族でいる時間をとても大切にしており、京都で撮影があっても、必ず週末には自宅に帰り、子供を肩車をして家の中を回ったり、庭でかけっこをしていた[19]

長男・諒は「声を荒らげて怒ったことは1度もありません。いい俳優になるということよりも、“人間として上質であること”、“人間として美しい生き方をすること”、“人に恥じない生き方をすること”を常に優先していたんじゃないかと思います。あれだけ嘘がない人はいないですね。人の悪口を言ったことは1度もなく、常にいい部分を見ていました。だから僕も怒られたことがなかったのかもしれません」「自分のやっていることと役のキャラクターが見事に一致した稀有な例ですよね。いい人の役をやっている人が、本当にいい人とは限らない世界ですから。父は大岡越前そのものでしたよ」と人柄を伝えている[19]

長男・諒が独立して一人暮らしを始めた時、加藤は普段はしない買い物をして息子の家を訪ね「珍しいものがあったから買ってきたよ」「これは焼かないのに焼きそばができるらしいんだ。おもしろいからちょっと一緒に食ってみよう」とペヤングカップ焼きそばを見せた。諒は「珍しくないよ」と言いにくく、「ああ、そうなんだね」と2人でしみじみと食べた[19]

厚生労働省にて健康日本21推進国民会議の委員を務め、健康大使にも任命された。

家族・親族
加藤家
静岡県御前崎市東京都
加藤家は古くからの地主農業も営んでいた[6]。家族九人が揃っていた頃は食事の時など壮観だった[6]。茶の間の広い板の間で作男の人たちが箱膳でご飯を食べた[6]

父・鉉一郎(教育者、小学校校長[5]1893年9月16日生。静岡県榛原郡白羽村(御前崎市)出身。父・又重は在世中郡会議員に推されて地方政界に馳駆した名士[20]1914年静岡師範学校を卒業し、1942年7月三保造船常務、1946年4月御前崎漁船組合理事、翌年2月清水商工会議所理事、同年7月に三保松風寮長を歴任した[21]。厳格な明治の男ながら、家事を分担するリベラルさと進取の気性に富む人物だった[5]。「何をしてもいいが、自分の行動に責任を持て」と述べ、それ以外は放任主義だった[8]1981年、88歳で死去[8]

母・せつ[8]1899年12月生。地頭方銀行頭取を務めた西原文平の三女。静岡精華女学校(現・静岡大成中学校・高等学校)卒[21]

姉(四人)[6]

兄・明[6][21]

弟・勝[6][21]

妻・伊藤牧子(女優・声優)1937年生 -

長男・夏原諒(俳優)1975年生 -

次男・加藤頼(俳優)1980年生 -

甥・うえだ峻(俳優)1943年生 -

出演
テレビドラマ

人間の條件
(1962年、TBS

(1964年、TBS)

わが心のかもめ(1966年、NHK総合) - 北原潔

三匹の侍(1966年 - 1969年、フジテレビ

若者たち(1966年、フジテレビ)

ナショナルゴールデン劇場NET

逃亡(1966年) - 源次

北斗の人(1967年) - 千葉周作


男はつらいよ(1969年、フジテレビ) - 藤村薫

たこたこあがれ(1969年、日本テレビ) - 山田誠

孤独のメス(1969年、TBS・国際放映) - 岩下健

ナショナル劇場(TBS・C.A.L


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