1966年(昭和41年)、刈谷市野田町の生家跡に顕彰碑が建立された[2]。
1967年(昭和42年)8月13日、静岡県熱海市梅園町の自宅で死去した[1][6]。死因は脳軟化症[2]。95歳没。葬儀は15日に自宅で、告別式は9月5日に青山学院礼拝堂で行われ、高弟の冨山保(初代横浜国立大学学長)が葬儀委員長を務め、門弟代表として佐野隆一(東北東ソー化学創業者)が謝辞を述べた[6]。
菩提寺は刈谷市野田町にある昌福寺[2]。生家跡には刈谷市によって小公園「加藤与五郎生家跡」が整備され、毎年秋には加藤の顕彰祭が行われている[2]。加藤は生前に自身の母校の児童生徒らに奨学金を贈っていたが、没後には加藤科学振興会が刈谷市内の7小中学校で加藤与五郎賞の表彰を行っている[2]。 東京高等工業学校や東京工業大学での指導学生に冨山保(初代横浜国立大学学長、元電気化学協会会長)、佐野隆一(東北東ソー化学創業者、日本ソーダ工業会名誉会長)、星野ト(東京工業大学名誉教授)、武井武(東京工業大学名誉教授、慶應義塾大学名誉教授、元電気化学協会会長)、永海佐一郎(東京工業大学名誉教授)、柴田勝太郎(元東洋高圧工業社長)など[6]。
昌福寺にある墓(愛知県刈谷市)
「加藤与五郎生家跡」(愛知県刈谷市)
門下
顕彰・栄典
1916年(大正5年)11月20日 - 従五位[7]
1935年(昭和10年) - 勲二等瑞宝章
1952年(昭和27年) - 藍綬褒章[3]
1957年(昭和32年) - 文化功労者[3]
1958年(昭和33年) - 軽井沢町名誉町民[8]
1964年(昭和39年) - 同志社大学名誉文化博士[3][3]
1964年(昭和39年) - 勲二等旭日重光章[3]
1980年(昭和55年) - 刈谷市功労者[1]
2000年(平成12年) - 刈谷市名誉市民[1]
著書
単著
加藤与五郎(著)『新体制下の化学の画期的振興と教育問題』日本講演通信社、1941年
加藤与五郎(著)『科学制覇への道』畝傍書房、1942年
加藤与五郎(著)『電気化学要論』同文書院、1942年
加藤与五郎(著)『電気化学要論』大八洲、1946年
加藤与五郎(著)『創造の原点』共立、1973年(『科学制覇への道』の改題)
共著
加藤与五郎・水野滋(共著)『電気化学の真髄』同文書院、1955年
訳書
ローレンス・A・ホウキンス(著)、加藤与五郎・崎川範行(訳)『未知への探険 ゼネラル電気研究所五十年史』槙書店、1952年
講演集
『創造・科学・教育 フェライトの父加藤与五郎』同志社大学理工学研究所、2001年
脚注^ a b c d e 加藤与五郎 日本のエジソン
^ a b c d e f フェライトの父 加藤与五郎生家跡 刈谷市観光協会