加納氏
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加納家を継いだ直恒は2000石の知行を与えられ[10]、紀州藩家老(年寄)を務めた。なお、久利には実子の久政(角兵衛)もいたが、別家を立てている[10][注釈 5]

加納直恒の子・政直(平次右衛門、大隅守)も紀州藩家老となった。加納政直は幼少期の徳川吉宗を養育したことで知られる。政直の子孫は紀州藩家老職を世襲し、代々「加納大隅守」を称した[15]
久利のきょうだい

『寛政譜』では久直の子として2男2女を載せており、長男が久利、長女が鈴木五郎兵衛妻(加納直恒の母)である。久直の二女は於大の方(伝通院)に仕えたが、慶長7年(1602年)に伝通院が没すると家康に仕えたという人物で[12](上掲の「佐阿」か)、のちに旗本水野忠直(水野忠重の五男)の妻になった[12][16]。久直の二男「某」(久太郎、兵右衛門)も徳川頼宣に仕えている[12][17]

『寛政譜』によれば、久直二女は水野家から離縁され、生家の加納家に戻って男子(忠直の五男。加納十大夫豊重)を産んだ[16]。『断家譜』は水野忠直の三男として「重直」を記し(生母に関する記載はない)、紀州藩士「加納兵右衛門」の養子となって「加納十大夫」を称したとある[18]。『南紀徳川史』によれば久直[注釈 6]の二男・加納兵右衛門(実名不詳)の惣領は五郎三郎(のち兵右衛門)勝直とあり、浮沈はあるものの子孫が続いている[17]
譜代大名・加納家「八田藩」および「一宮藩」も参照

加納久通は、加納政直の二男として生まれ[19]、加納久政の家を継いだ[注釈 7]。徳川吉宗が幼少の頃より側近くに仕えた久通は、享保元年(1716年)に吉宗が江戸城に入って将軍に就任すると幕臣となり、御側御側御用取次)を務め、享保の改革を支えて大きな役割を果たした。享保11年(1726年)には1万石の大名に列した(伊勢八田藩)。八田藩3代藩主の加納久周は、岩槻藩大岡忠光[注釈 8]の子で加納家の養子となった。久周は松平定信の盟友であり、若年寄格側御用取次として寛政の改革を支え、「寛政の三忠臣」の1人に数えられる。石高も1万3000石に加増された。

江戸時代後期には幕府の海防政策に従って上総国一宮に陣屋を移し(一宮藩)、この地で幕末・廃藩置県を迎えた[20]
明治以降の加納家

最後の藩主久宜は、明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還で一宮藩知事に任じられたのを経て、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県まで藩知事を務めた[21]

明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家大名家が統合されて華族制度が誕生すると加納家も大名家として華族に列した[22][23]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 9]として久宜が子爵に列せられた[4]

久宜は大正初期まで生き、東京控訴院検事大審院判事鹿児島県知事、一宮町長、貴族院子爵議員などを歴任して行政・教育・司法・産業振興など多分野にまたがって活躍した[25]。久宜の子・久朗は銀行家を経て、1962年に千葉県知事に当選している(在任110日で急逝)。
脚注
注釈[脚注の使い方]^ 松平備中守久親じたいは『寛政譜』の松平家系図にも記載がある。
^ 川村優は「加納家御系譜改正草稿扣」のほか、東京大学史料編纂所所蔵「加納家文書」に含まれる「御親族間合心得覚」を参照している[7]
^ 川村優(1964年)では、久行が今川義元・氏真に仕えて掛川城で落命したと記したのち、「これよりさき」に久直へ徳川家に仕えるよう指示した話が続いている[8]
^ 『南紀徳川史』では、久利が家康に召し出されたのを慶長13年(1608年)とする[6]
^ 『南紀徳川史』では久利の惣領(嫡男)を十郎兵衛(実名不詳)としている。


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